『王になった男』の主役の光海君はどんな国王だったのか

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テレビ東京の韓流プレミアで放送されている『王になった男』の主人公は、朝鮮王朝の第15代王であった光海君(クァンヘグン)だ。

歴史上では、どんな人物だったのか。

光海君は14代王・宣祖(ソンジョ)の二男として1575年に生まれた。1592年に朝鮮出兵が起こって豊臣軍の攻撃を受けたときに、若くして武勲をあげている。兄の臨海君(イメグン)が捕虜になって屈辱にまみれたのとは対照的だ。

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朝鮮王朝では長男が王位を継承するのが原則だったが、臨海君より光海君のほうが力量的に王にふさわしいと評価され、光海君は世子(セジャ/王の後継者)に指名された。

ただし、臨海君を支持する高官たちが巻き返しに出た。さらに、宣祖の正室が息子を産み、後継者争いが激しくなった(臨海海も光海君も宣祖の側室から生まれていた)。その中で光海君は着実に力をつけ、宣祖が1608年に世を去った後に15代王となった。

(写真=韓国tvN『王になった男』ポスター)

済州島で生き続けた光海君

むしろ、ここから光海君の本当の苦悩が始まった。王位は安泰とはいえず、光海君は兄弟たちとの激しい権力闘争に巻き込まれた。
その過程で、光海君派は臨海君を死罪にして、正室から産まれた異母弟を殺害した。この骨肉の争いが大きな怨みを買う結果となった。

ただ、王政の最高権力者として見ると、光海君には優れた指導力があった。豊臣軍との戦いで荒廃した国土の復興に尽くし、王宮を再建した。さらに、国防を強化し、異民族との外交でも成果をあげた。内政面では、納税制度を改善して庶民の税負担を軽減させた。

政治的な業績だけなら名君と言われても不思議ではなかった。しかし、光海君によって排斥された人たちが決起し、1623年にクーデターが起こって成功した。世の中が王の交代を望んだのは、兄弟に対する所業が問われたからだろう。

光海君は流罪となり、最終的には都から最も遠い済州島(チェジュド)に流された。さいはての地に送られたことにショックを受けた光海君は、島に着いて慟哭した。

それでも気を取り直し、光海君は済州島で生き続けた。先王としての尊厳を守られたとは言えなかったが、屈辱を胸にしまって島の暮らしになじもうとした。世を去ったのは1641年で66歳だった。王宮を追われてから18年の歳月が過ぎていた。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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