叔父によって廃位となって命を落とした端宗の話は哀しいだけではない

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朝鮮王朝の歴史には「無念の出来事」が多かった。しかし、その中で後世の人たちを勇気づける逸話も誕生している。その1つを披露していこう。

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1455年、甥の端宗(タンジョン)を脅して世祖(セジョ)が7代王として即位した。この強引な王位奪取に対する批判の声は、次第に力を帯びて広がっていった。その中心には、学識と志に満ちた忠臣がいた。

とりわけ、成三問(ソン・サムムン)の存在が際立っていた。彼は儒学の理念を胸に、仲間と共に端宗の復位を目指してひそかに動いた。

その計画とは、まさに世祖の暗殺であった。しかし計画は露見し、失敗に終わった。成三問をはじめとする6人の同志たちは反逆の罪で捕らえられ、過酷な拷問にかけられた。世祖はその知性と能力を惜しみ、「余を王と認めれば命は助けよう」と提案したが、忠臣たちは拒絶し、最後まで世祖を罵倒して信念を貫いた。

忠義の道を歩んで処刑された彼らは、後に「死六臣(サユクシン)」と呼ばれ、歴史の中でその魂の気高さが語り継がれていった。

端宗の肖像画
江原道寧越郡によって2021年に完成した端宗の肖像画(写真=江原道寧越郡)

無念を抱えたまま命を落とした国王

それでも、端宗の復位を目指したのは彼らだけではない。世祖の弟であった錦城大君(クムソンデグン)もまた、正義の念から兄に対して反旗を翻し、甥・端宗の王位復活を狙った。けれど、その志もまた露見し、彼は処刑されてしまった。

こうした復位の動きが相次いだことは、皮肉にも端宗自身の立場をさらに危うくした。世祖は、端宗が生きている限り、新たな謀反が再び起こるのではないかという疑念を持つようになった。ついに、端宗は平民へと降格された後、1457年に死罪となった。彼はわずか16歳という年齢であった。

無念を抱えたまま命を落とした端宗の名誉が回復されたのは、長く時を経た19代王・粛宗(スクチョン)の時代だった。実に死後200年以上も経っていた。それまで端宗は王として認められず、歴代の記録でも罪人として扱われていた。まさに「悲劇の端宗」と呼ばれるにふさわしい運命であったが、彼の名誉はこうして完全に復活した。

文=大地 康

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