【ドキッとする王朝裏面史】国王の側室から生まれた「翁主」で評判が最悪なのは誰か

2025年03月20日 歴史 #康熙奉コラム #写真
このエントリーをはてなブックマークに追加

同じ国王の娘でも、母親の格が違うと呼び名が変わってくる。厳密に言うと、正室から生まれた娘が公主(コンジュ)であり、側室から生まれたときに翁主(オンジュ)となる。必然的に、公主より翁主のほうが、立場が弱くなってしまう。

【関連】【歴史コラム】イ・サンの叔母だった和緩翁主はなぜカタキ役になったのか

歴史的に、翁主をたくさん持った国王を比較してみると、三番目に翁主が多かった国王は14代王・宣祖(ソンジョ)である。彼は朝鮮王朝で最初に側室から生まれた国王として知られているのだが、子供の数が多いことでも有名だった。その数は25人で、そのうちの10人が翁主だった。

二番目に多かったのは9代王の成宗(ソンジョン)で、翁主の数は11人だった。成宗も側室を多く抱えていて、その末に多くの翁主を持つに至ったのである。

そして、一番多くの翁主を持ったのが3代王の太宗(テジョン)だ。彼には歴代王で最も多くの子供がいた。その数は29人であり、その中で翁主が13人だった。

このように、各国王の翁主を人数で比較してきたが、歴史的に翁主の中で評判が悪い人は誰だったのか。それは間違いなく和緩(ファワン)翁主であるに違いない。傑作『赤い袖先』ではソ・ヒョリムが演じていた。

『赤い袖先』の和緩翁主
『赤い袖先』でソ・ヒョリムが和緩翁主を演じていた(NBCユニバーサル・エンターテイメント/©2021MBC)

歴史的に評判が悪い翁主

和緩翁主は21代王・英祖(ヨンジョ)の娘だ。彼女の母親は英祖の側室だった映嬪・李氏(ヨンビン・イシ)である。同じ母親から生まれた実の兄が思悼世子(サドセジャ)。しかし、和緩翁主と思悼世子は仲が極端に悪かった。

1762年、思悼世子は素行の悪さを指摘されて英祖によって米びつに閉じ込められて餓死してしまうが、そのときに兄の悪口を英祖に告げ口したのが和緩翁主だったと言われている。それほど和緩翁主と思悼世子は険悪だったということだ。

1776年、思悼世子の息子だったイ・サンが22代王として即位した。すぐに彼は実の叔母だった和緩翁主を厳しく処罰している。イ・サンとしても、「和緩翁主だけは絶対に許すことができない」という気持ちが強かったことだろう。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

【関連】『赤い袖先』の「嫌われ王女」和緩翁主は実在したのか。悪女のワケとは

【関連】【韓ドラになった歴史人】『秘密の扉』に登場する思悼世子が歩んだ人生とは?

【関連】【韓ドラになった歴史人】名君として多くの功績を残した正祖はなぜ命を狙われたのか

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事