それは、朝鮮王朝の歴史を揺るがす大事件であった。1623年3月13日に15代王・光海君(クァンヘグン)を追放するためのクーデターが行なわれた。1000人余りのクーデター軍が王宮を囲み、光海君を突然襲ったのである。
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当時、国王を守るための護衛兵たちがほとんど抵抗しなかったと言われている。すでに護衛兵にはクーデター軍に内通していた人たちが多かったからである。それほどクーデターを主導した仁祖(インジョ)は、巧みに光海君の周囲を自分の仲間で囲い込んでいた。
こうなってしまっては光海君が身を守ることはできない。すぐに捕まってしまい、その後は王宮から追放されて流罪となった。
とはいえ、仁祖は光海君の命までも奪わなかった。結果的に光海君は、最後は済州島(チェジュド)に流された。そこで亡くなったのは1641年のことで、享年66歳であった。
こうして仁祖は光海君から王位を奪って国王になったのだが、彼がクーデターを起こした時は大義名分が必要だった。「ただ光海君が悪い国王だからクーデターを起こした」というわけにはいかない。それなりにしっかりとした大義名分があって光海君を追放したという理由付けが欠かせなかった。
その時の理由付けの一つが「恩のある明を裏切った」というものだった。つまり、朝鮮出兵の時に援軍を出してくれた明が今度は後金と戦っているのに朝鮮王朝は助けなかった、ということを仁祖は非難した。
しかし、これは仁祖の言いがかりだ。実は光海君は明に援軍を出し、その上で後金に対しても朝鮮王朝の立場をしっかりと説明している。これは二股外交であるのだが、小国であった朝鮮王朝が生き残るためには最善の方策であった。結果的に明は後金に滅ぼされているので、この二股外交は外交術としては本当に巧みだった。
しかし、仁祖は明に対して背信行為を行なったとして光海君を罵(ののし)り、クーデター軍が光海君を追放する理由の一つになった。ただし、この大義名分はこじつけである。何としても光海君を追放したかった仁祖が無理やり都合のいい理由を作ったとしか言いようがない。このように、仁祖は狡猾な国王であった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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