15代王・光海君(クァンヘグン)は非常に賢い国王であった。政治的な能力も高く、外交や内政で成果を挙げていた。特に減税を行なって庶民の生活向上に尽力していた。
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しかし、1623年に光海君はクーデターによって王宮を追われて、結局は廃位になってしまった。
最初に島流しとなったのは都から近い江華島(カンファド)だった。そこに流された後、息子夫婦は逃亡をはかったことが発覚して自害させられ、妻の廃妃・柳(ユ)氏も絶望に追い込まれて自ら命を断った。
こうして家族を失った光海君であったが、彼は孤独になっても必死に耐えた。その後、16代王・仁祖(インジョ)は光海君を最終的に南海の孤島であった済州島(チェジュド)に島流しにすることにした。
当時の済州島は極悪人たちの流刑地であった。都からあまりに遠いので、都に帰ってくる望みもなかった。それゆえ、光海君が実際に済州島に送られるとき、役人たちは船の周りに幕を張って、方向がわからないようにしてあった。
こうして済州島に連れてこられた光海君。彼は島に着いたとき、初めて自分が本土から遠く離れた孤島に流されたことを知った。
「まさか、こんなところまで……」
光海君は本当に絶望した。衝撃で崩れ落ちるほどだった。
「ご在位のときに悪い側近にだまされなければ、こんな遠くにまで来られることもなかったのでずが……」
島の役人にそうなぐさめられても、それは後の祭であった。
すでに仁祖の統治は確定して、光海君が復帰できる可能性はまったくなかった。しかも、彼は済州島で先王としての威厳を保つことはできなかった。ときには、役人から蔑(さげす)まれることもあったという。
それでも光海君は必死に耐えて生き抜いた。
光海君が没したのは1641年。享年66歳であった。
27人いた国王の中では4番目に長寿であった。
国王の在位中は15年、廃位になってからは18年。光海君は「元国王」の立場のほうが3年長かった。そして、最期まで国王に復帰できるという望みを失わなかった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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