光海君(クァンヘグン)は父親の宣祖(ソンジョ)が1608年に亡くなった後に15代王となった。それでも、王位は安泰とはいえず、光海君は兄弟との権力闘争に巻き込まれた。結局、兄の臨海君(イメグン)を死罪にして、異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)も殺害した。光海君の側近が行なった非道なことなのだが、光海君にも責任があった。
【関連】【因果応報の朝鮮王朝】優秀な光海君は側近の暴走で廃位にされたのか
彼は統治者としては名君に匹敵するほどの善政を行なったが、数多くの恨みを買っていたので、最終的にはクーデターを起こされた。
迂闊(うかつ)にも油断していた。用心が足りなかった光海君はクーデターを防げなかった。
その末に彼は廃位となり、江華島(カンファド)に島流しにされた。
このとき、息子夫婦は果たしてどうなったのか。
光海君がクーデターで王宮から追放されたとき、息子の世子(セジャ/国王の正式な後継者)は30歳だった。
彼は、父親の光海君と一緒に江華島に流され、逃亡できないように厳しく監視されていた。それでも彼は、新しい国王となった仁祖(インジョ)から王位を奪い返すつもりでいた。そのために、幽閉されている家からトンネルを掘って外部へ逃げようとした。
それはもう執念としか言いようがなかった。彼は必死に穴を掘ったのだ。しかし、トンネルを作っていることが露見してしまい、世子は厳罰を受けることになった。
ついに世子は観念した。これ以上生きていけないことを悟って、彼は首をくくって自害したのであった。
それは、世子嬪(セジャビン)も同様だった。彼女もまた首をくくってしまった。
その知らせを受けて母親の廃妃・柳氏(ユシ)は絶望的な気持ちになった。
彼女は世をうらみながら自害した。
このように、家族が悲劇的な死に方をしても、ただ一人、光海君は死を選ばなかった。
彼は最終的に「地の果て」と言われた済州島(チェジュド)に流された。かつて国王であった人がそんな屈辱を受けても、光海君は1641年まで生き抜いた。すでに、息子夫婦と妻が亡くなってから18年も経っていた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【関連】『ポッサム』にも登場する光海君! 史実ではどんな王だったのか
前へ
次へ