【因果応報の朝鮮王朝】優秀な光海君は側近の暴走で廃位にされたのか

2022年11月27日 歴史 #康熙奉コラム #写真
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歴史の評価は時代によって大きく変わるものだが、光海君(クァンヘグン)ほど現代になって評判が一変した国王は他にいない。かつてはクーデターで廃位となった暴君のイメージがあったけれど、歴史研究が進むと、彼の政治的な業績が次々に明らかになった。

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特に、壬辰倭乱(イムジンウェラン/朝鮮出兵のこと)で荒廃した国土の復興、庶民の減税、国防の強化、巧みな外交などで成果を出している。

このように政治的には名君に匹敵するほどの国王だったのに、当時はあまりに恨みを買いすぎていた。すべては側近たちが行なった悪行なのだが、それを制止しなかった光海君の責任も重大だった。

そのあたりの背景を解説していこう。

14代王・宣祖(ソンジョ)の正妻は懿仁(ウィイン)王后だったが、子供を産んでいない。それだけに、側室が産んだ王子の中から後継者を選ばなければならない。

候補の筆頭は、宣祖の長男・臨海君(イメグン)だった。彼は性格が粗暴で評判が良くなかった。

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〔写真=Licensed by KBS Media Ltd.(C) 2019 KBS. All rights reserved〕)

側近たちの悪行

その臨海君に代わって評価を高めたのが二男の光海君(クァンヘグン)だ。彼は、頭脳明晰で豊臣軍との戦乱でも功績を挙げている。結局、宣祖が世子に指名したのは光海君だった。

しかし、大きな変化があった。1600年に亡くなった懿仁王后に代わって宣祖の正妻となった仁穆(インモク)王后が、1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだのである。

宣祖は、永昌大君を世子にしたいという希望を持っていたが、それができないまま1608年に世を去った。

こうして光海君が王位を継いだ。しかし、彼はいつも怯えていた。臨海君と永昌大君がいつか王位を奪うのではないかと恐かったのだ。

光海君の怯えを悟った側近は、臨海君を排除することを決めて、1609年に殺害した。

次の標的は永昌大君だ。1614年には、江華島(カンファド)に配流されていた8歳の永昌大君の命を奪った。さらに、仁穆王后にひどい仕打ちをした。大妃(王の母)の身分を剥奪して離宮に幽閉(ゆうへい)し、仁穆王后の実父を死罪にして実母も奴婢(ぬひ)にしてしまった。

仁穆王后の恨みは激しかった。それだけに、光海君が1623年にクーデターで追われたのも仕方がないことだった。側近たちの悪行が主君の光海君を滅ぼしてしまったのである。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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