朝鮮王朝の15代王だった光海君(クァンヘグン)が、クーデターによって王宮を追われたのは1623年のことだった。
クーデターを主導した仁祖(インジョ)が光海君を廃位に追い込み、自分がすぐに即位して16代王になった。
このとき、仁祖がクーデターの大義名分として頼ったのが仁穆(インモク)王后だった。
彼女はもともと14代王・宣祖(ソンジョ)の二番目の正室であった。そういう意味では、宣祖の息子だった光海君の継母に当たる女性だ。
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彼女は1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んで、宣祖を大変喜ばせている。しかし、肝心の宣祖は1608年に急死してしまい、後を継いだのが光海君だった。
その光海君は王位を安定させるために1614年に永昌大君を殺し、仁穆王后を離宮に幽閉している。さらに、仁穆王后の大妃(テビ/国王の母)という身分を格下げにしている。
そんな状況に陥っていた仁穆王后は、1623年に仁祖がクーデターを成功させると、恨みを持っていた光海君の斬首を強く主張した。
しかし、仁祖は斬首までは考えていなかった。先王をそこまで処刑すると、後世の歴史で非難されるのが明白だったからだ。
しかし、仁穆王后は愛する息子を殺された恨みを絶対に晴らしたいと願っていた。
そこで、彼女は江華島(カンファド)に流罪となっていた光海君を暗殺しようと企んだ。なにがなんでも永昌大君の仇を取りたかったのだ。
こうして、仁穆王后が送った刺客が江華島に潜入した。
しかし、光海君の側も刺客に対して万全の備えをしていた。彼も仁穆王后の狙いを察知していたのだ。
この点では、光海君のほうが自分の命を守るために用意周到だった。
結局のところ、仁穆王后の暗殺計画は実を結ばなかった。何よりも、仁祖の協力を得られなかったことが仁穆王后にとっては痛手だった。先王の処刑は前例がなかったから無理もないことであった。
失意の中で仁穆王后は1632年に亡くなってしまったが、最期まで光海君を生かしていたことを後悔していた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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