世宗の長男として1414年に生まれた5 代王・文宗(ムンジョン)は、10代になっても虚弱体質で精気に乏しかった。それが結婚生活にも影響してしまった。
彼が最初に妻を迎えたのは13歳のときで、相手は金氏(キムシ)という4 歳上の評判の美人だった。この金氏には、「早く子を宿したい」というあせりがあった。4 歳上であるからには、急ぐのも当然だった。しかし、肝心の文宗は幼すぎて肉体的にも成熟しておらず、一向に妻のもとを訪ねる構えを見せなかった。
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そこで、金氏は夫の気を引こうとして、フェロモンがたっぷりの媚薬をつくった。それは、ヘビやコウモリを干して粉末にしたものだった。
「怪しげな薬をつくって宮中を惑わせようとしている」
そんな噂が立ち、金氏は魔女のような言われ方をされた。そのあおりで、実家に帰されてしまった。
驚かされるのは、その後の金氏の父の行動だ。“家門の恥”と憤り、娘を殺したうえに自分も自決してしまった。
文宗は二番目の妻を迎えた。その奉(ポン)氏もまた、金氏と同じように寂しい思いをすることになった。
なにしろ、今度も文宗がまったく寄りつかなかったのだ。奉氏は性格が勝ち気で最初は気丈にふるまっていたが、やがて独り寝の寂しさに耐えられなくなった。
その結果、お付きの女性と同性愛にふけるようになってしまった。このことが露呈し、「世子の妻にふさわしくない」という理由で離縁させられた。奉氏も実家に戻ったあとに自死せざるをえなかった。
かつて妻だった2 人の女性の不幸な死。夫の文宗に責任がないとは言えない。
父の世宗は息子に側室をもたせることにした。その中で文宗がもっとも気に入った女性が1441年に息子を産んだ。その子が後の 6代王・端宗(タンジョン)だった。
しかし、母親は出産してすぐに亡くなってしまったが、後に顕徳(ヒョンドク)王后として追尊された。
文宗はよほど顕徳王后を愛していたようで、以後も側室を持とうとしなかったという。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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