【朝鮮王朝/悲劇の三大世子】芳碵、昭顕、思悼はなぜ死ななければならなかったのか

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世子(セジャ)といえば、皇太子のことだ。国王の正式な後継者であり、黙っていてもいずれ国王になれる身分だ。しかし、朝鮮王朝の歴史を見ると、世子でありながら、結局は国王になれなかった人が多い。特に、言葉にできないほど悲惨な最期を遂げた世子が3人いる。

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それは、李芳碵(イ・バンソク)、昭顕(ソヒョン)世子、思悼(サド)世子だ。彼らはどんどんな悲劇に見舞われたのだろうか。順に見ていこう。

●李芳碵(1382~1398年)

朝鮮王朝の初代王であった太祖(テジョ)の八男である。幼いときから頭脳明晰で、朝鮮王朝が建国された1392年に10歳で世子に指名された。

しかし、太祖の五男であった異母兄の李芳遠(イ・バンウォン/後の3代王・太宗〔テジョン〕)が国王になりたいという野心を強く持ち、1398年に「王子の乱」が起こして李芳碵を殺してしまった。結局、朝鮮王朝で初めての世子は惨殺されて国王になれなかった。

写真=『王の運命-歴史を変えた八日間-』韓国ポスター(この映画ではユ・アインが思悼世子を演じた)

朝鮮王朝最大の悲劇

●昭顕世子(1612~1645年)

16代王・仁祖(インジョ)の長男である。1637年に朝鮮王朝が清に敗北したとき、人質として清に連れて行かれた。8年後、人質から解放されて昭顕世子はようやく帰国できたが、清の先進的な統治方法を朝鮮王朝にも導入したいという意欲を強く持っていた。

しかし、仁祖の逆鱗に触れてしまった。彼は清をひどく恨んでいたからだ。帰国して2か月後に昭顕世子が急死。仁祖と側室によって毒殺されたと見られている。

●思悼世子(1735~1762年)

悲劇の世子としてあまりに有名だ。思悼世子は21代王・英祖(ヨンジョ)の息子で、天才的な頭脳を持っていた。将来を嘱望(しょくぼう)されたが、精神的な重圧に耐えきれず素行が乱れてしまった。英祖が激怒し、息子に自決を命じた。

しかし、従わなかったので、英祖は米びつに思悼世子を閉じ込めて餓死させてしまった。激怒すると手がつけられなかった英祖がもう少し冷静だったら……。朝鮮王朝最大の悲劇は起こらなかったかもしれない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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