朝鮮王朝の建国時は権力闘争が激しかった。
1398年、初代王・太祖(テジョ)に次ぐ最高権力者だった五男の李芳遠(イ・バンウォン)は、政敵だった鄭道伝(チョン・ドジョン)を殺し、さらに異母弟の2人を排除した。こうして「王子の乱」を制した李芳遠は、太祖の二男を2代王・定宗(チョンジョン)として即位させた。
【関連】【韓ドラになった歴史人】『太宗イ・バンウォン』の太宗は朝鮮王朝の基盤を築いた国王だった
この新しい王の役目は、すみやかに王位を弟に譲ることだった。しかし、予想外のことが起きた。太祖の四男が1400年に挙兵し、李芳遠の命を狙ったのだ。しかし、四男は太宗に歯が立たない。すぐに鎮圧されて流罪となった。
「他にも反乱を起きたら困る」
そう考えた李芳遠は定宗を退位させて、自ら即位して3代王・太宗(テジョン)となった。1400年11月のことである。
すかさず太宗は、有力貴族の力を弱体化させるために、私兵を廃止した。また、王宮の重臣の権限を分散させて、一部の高官に権力が集中しないように細工した。
太宗は本当に恐ろしい男だった。実際、非情なほどの冷酷さで外戚(王妃の親族)を没落させた。そのうえで太宗が進めた政策が、有名な「崇儒排仏」である。
これは何かと言うと、儒教を崇拝して仏教を排除することを意味している。その結果、仏教寺院は次々に廃止されてしまった。わずかに残った寺は、山中に移らざるをえなくなった。
なぜ、ここまで太宗は仏教を目のカタキにしたのか。それは、仏教寺院が政治に介入しすぎて国が傾いた高麗王朝の二の舞になりたくなかったからだ。
こうして、建国まもない朝鮮王朝の基盤づくりに取り組んだ太宗だったが、父親の太祖との確執が深刻だった。それでも、最後は太祖も太宗の力量を認めるようになった。
1408年、太祖は73歳で世を去った。彼は、自分が作った王朝がその後518年間も続くとは思わなかったことだろう。それはまさに、朝鮮王朝の基盤を盤石に築いた太宗の大きな功績だと言える。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【関連】【エンタメ朝鮮王朝実録】初代王はなぜ後継者争いで間違った選択をしたのか
前へ
次へ