『イ・サン』で堂々と登場してきた丁若鏞は史実でどんな人物だったのか

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ドラマ『イ・サン』の終盤に新たに登場人物となったのが、天才学者の丁若鏞(チョン・ヤギョン)である。ソン・チャンウィがハツラツと演じている。

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彼は朝鮮王朝を代表する思想家であり実学者なのだが、生まれたのは1762年である。『イ・サン』では科挙に何度も落第したという設定になっているが、実際に科挙に受かったのは1789年のことだった。

それからは官僚として出世していったが、実学でも多くの実績を残している。たとえば、イ・サンが父親である思悼世子(サドセジャ)の墓を水原(スウォン)で整備するとき、城郭建設の際のクレーンを巧みに作ったと伝えられている。

これほどの実力者であり、イ・サンが存命中には大活躍したのだが、1800年にイ・サンが亡くなったあとに丁若鏞の人生が暗転した。それは、1801年に天主教徒(キリスト教徒)を弾圧した「辛酉(イニュ)迫害」が起こったからである。

イ・サンの長男である純祖(スンジョ)が23代王として即位したのだが、まだ10歳だったので英祖(ヨンジョ)の二番目の正室・貞純(チョンスン)王后が代理で政治を行なった。彼女はもともとイ・サンと政治的に対立する存在であった。

画像=MBC

思想と実学の卓越した活動

それゆえ、貞純王后はイ・サンの革新的な政策を一蹴して、彼が信頼を寄せていた高官たちを次々に罷免した。さらには、天主教徒たちが迫害の嵐を受けることとなった。

実際、貞純王后と相反する政治的派閥の中には天主教徒が多く存在した。そのため、彼女は天主教に厳しい目を向け、多数が処刑されるか流罪となった。これが「辛酉迫害」である。丁若鏞も天主教徒だったので、全羅道(チョルラド)への流罪となってしまった。それから17年という長きにわたって流罪が続いた。それでも丁若鏞は無駄に過ごさず、『牧民心書』という不朽の名著を著した。

また、流罪が解けた後も、丁若鏞は思想と実学の両面で卓越した活動を展開し、朝鮮王朝の社会で大いなる発展に貢献した。本当に、とてつもない巨人であった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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