【エンタメ朝鮮王朝実録】4代王・世宗が創製した訓民正音を官僚はなぜ嫌ったのか

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1400年に即位した朝鮮王朝第3代王・太宗(テジョン)は、大王と呼ばれるにふさわしい業績をあげていたが、在位中に息子への禅譲を何度も試みている。しかし、家臣に反対されて実現しなかったのだが、1418年にようやく三男の忠寧(チュンニョン)に譲位した。ここに、4代王・世宗(セジョン)が誕生したのである。

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太宗は息子たちの中で最も優秀な人間を後継者にして、1422年に亡くなった。素晴らしい統率力によって建国まもない朝鮮王朝の体制を磐石にした。そうした大王の敷いたレールに乗った形で世宗は統治を開始することができた。

世宗の本好きは子供の頃から有名だった。好きな本なら100回でも読み直すほどで、そういう人が国王になっただけに、政治が文治(ぶんち)主義(学問や法制によって世を治めること)になるのも必然だった。

世宗は儒教思想や歴史・地理に関する書籍の編纂事業を重視し、優れた学者たちの意見を取り入れながら、文治政治を進めた。その集大成が、民族固有の文字である訓民正音(フンミンジョンウム)の創製である。

かつて朝鮮半島で使われていた文字は漢字だけだったが、当時の学問水準では一般庶民が覚えることが難しかった。それゆえ、漢字は特権階級が使える文字として限定され、多くの人は日常生活で使う文字を持てなかった。

世宗の像
ソウル中心部に建っている世宗の像

朝鮮王朝最高の名君

庶民を不憫に思った世宗は、新しい文字の創製に取り組んだ。その成果が1443年に完成した訓民正音だ。その公布は1446年である。画期的な訓民正音は、漢字と比べると覚えるのがとても易しかった。

それなのに、当初は人々の間で広く伝わらなかった。官僚や学者が自分たちの既得権が脅(おびや)かされるのを嫌がって、訓民正音の普及を意図的に防止したからである。

とはいえ、19世紀の後半から訓民正音は「ハングル(偉大な文字)」という名称となって広く庶民の間で浸透するようになった。それによって、歴史的に世宗の偉大さが再認識されて、今では彼も「朝鮮王朝最高の名君」として称賛されている。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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