52年間も国王として君臨した英祖(ヨンジョ)は、1776年3月5日に82歳で生涯を閉じた。それにともなって、世孫(セソン)だったイ・サンが、22代王・正祖(チョンジョ)として即位した。
イ・サンは、1776年3月10日、王宮で即位の大礼を挙げた。その日、朝廷の重臣たちの前に立った彼は、国政を見据え、堂々たる声で宣言した。
「ああ!寡人(クァイン)は思悼(サド)世子の息子である」
その言葉は、老論派の重臣たちの胸を貫いた。「寡人」とは、イ・サン自身を指す表現である。しかし、彼があえて「思悼世子の息子」と公言した真意は、重臣たちには痛いほど伝わった。
思悼世子は、英祖の王命によって無残にも罪人として処罰された。その悲劇のため、イ・サンは本来、そのままでは王位に就くことさえ叶わぬ立場であった。
そこで英祖は、イ・サンの身分をすでに9歳で夭逝した孝章(ヒョジャン)世子、思悼世子の兄であり英祖の長男の養子に迎え、形式上、正統な後継者としたのである。この方法は王室の体面を保つための苦肉の策であった。
だが、あくまで形式に過ぎなかった。イ・サンは、あえて即位のその日に、すべてのしがらみを打ち砕くかのように「自分は思悼世子の息子」と断言したのである。この宣言には、「実父を死に追いやった者たちを決して許さぬ」という、鋭く冷たい決意が込められていた。
その証として、イ・サンが即位後、真っ先に行ったことこそ、思悼世子の名誉回復であった。イ・サンの胸に燃えていたのは、忠義と孝心に満ちた熱き炎であり、父の無念を晴らすという使命感であった。
こうして、イ・サンは、その治世の第一歩を、己の血と魂の証明から踏み出した。その姿は、まるで春の嵐のように激しくもあり、また麗しいものであった。
実際、イ・サンの即位は、単なる王位継承ではなかった。それは、父の冤罪を晴らし、朝鮮王朝に新たな光をもたらす「再生の儀式」であったのだ。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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