【王朝の真実】名君・世宗の妻はどんな地獄を味わったのか

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ハングルを作ったことで史上最高の名君と称賛された4代王・世宗(セジョン)は、実は子供が大変多い国王だった。

その数は22人。朝鮮王朝の27人の国王の中で、子供の多さは四番目だった。

しかも、世宗の場合は、側室が12人の子供を産んでいるのに対し、正室からは10人も生まれていた。側室は10人前後と数が多かったから12人の子供が生まれても当然かもしれないが、正室はたった1人なので、そこから10人が生まれるというのは並大抵のことではなかった。

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その正室というのが昭憲(ソホン)王后であった。

昭憲王后が3代王・太宗(テジョン)の三男だった世宗と結婚したのは13歳のときだ。そして、世宗が1418年に4代王・世宗(セジョン)として即位したのにともなって、昭憲王后も晴れて王妃になった。

彼女はおとなしくてやさしい性格だったので、王宮の中でも評判が良かった。

しかし、彼女の実家は大変な目に遭ってしまった。というのは、太宗がまだ上王として実権をもっていて、王の外戚を極度に警戒したからだ。

朝鮮王朝最高の名君と言われた世宗

悲しい運命

結局、昭憲王后の兄弟たちは出世するにしたがって太宗に目をつけられ、最終的には、謀反の疑いをかけられて死罪にされてしまった。

それだけではない。昭憲王后の母親は奴婢に格下げされてしまい、昭憲王后自身も廃妃の危機に立たされた。

すべて太宗という恐ろしい権力者に嫌われた結果だった。

とはいえ、太宗は昭憲王后の廃妃を最後のところで思いとどまった。彼女が10人の子供を産んだことを評価したからだ。それで、昭憲王后は廃妃にならずに済んだ。

彼女は世宗と仲良く夫婦を全うして1446年に51歳でこの世を去った。

実家の没落という悲しい運命を背負ってしまったが、名君となった夫を支えたことは誇りだった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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