朝鮮王朝大第12代王の明宗(ミョンジョン)の1人息子は12歳で亡くなってしまったので、後継者不足が深刻になった。やむをえず、次の王は11代王・中宗(チュンジョン)の孫の中から選ばざるをえなくなった。
こうして即位したのが、14代王・宣祖(ソンジョ)だった。
彼は正当な王位継承者とは言えなかった。それまでの朝鮮王朝の歴史において側室から生まれた国王は初めてだったからだ。そのことに負い目を感じた宣祖は、自分の後継ぎこそは正室から生まれた王子にしたいと念願した。
それなのに正室はとても病弱で、宣祖は40歳になっても正統的な嫡男を持つことができなかった。
1591年、宣祖は大君(テグン/正室の息子)の中から世子を選ぶことをあきらめ、側室から生まれた王子たちの中から後継者を決めることにした。とはいえ、側室から13人の王子が生まれていたので、選考は難航した。
本来なら、長男の臨海君(イメグン)が有力な候補になるべきなのだが、1592年に起こった壬辰倭乱(イムジンウェラン/朝鮮出兵のこと)のときに彼は加藤清正軍の捕虜となってしまい、その屈辱から解放後も生活が乱れてしまった。
しかも、彼はもともと気性が荒かった。その結果、二男の光海君(クァンヘグン)が世子に指名された。この二男は壬辰倭乱のときにも武勲を立て、王宮の中でも評判が良かった。
1598年、ようやく戦乱が終結したが、国政は混乱したままだった。光海君の世子としての立場も決して安定していなかった。
その当時は、正式な世子を決める手続きとして中国大陸を支配する明の許可(柵封)が必要だった。しかし、明は、長男の臨海君がいるのに二男を世子にしたいという朝鮮王朝の要請に難色を示した。
そういう事情があったので、光海君の世子指名が正式決定しない間に、宣祖の二番目の正室となった仁穆王后(インモクワンフ)が永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだ。宣祖があれほど望んだ嫡男(正室の息子)である。
それによって、王宮では「光海君が庶子(側室の子)であり正当な継承権は永昌大君にある」という意見が多くなった。結局、臨海君派、光海君派、永昌大君派の3つの勢力が激しい権力闘争を行なった。
しかし、思わぬ事態が闘争を終結させた。それは、1608年に宣祖が正式な決断を下すことなく急死したということだ。
彼があと数年生きていれば、次の国王は永昌大君になっていただろう。しかし、言葉もまだわからない2歳では国王になることはできない。こうして光海君は15代王として即位したのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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