【朝鮮王朝の悲劇】国王の後継者である世子が惨殺された大事件とは?

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世子(セジャ)とは皇太子のことであり、未来の国王だ。朝鮮王朝でも国王に次ぐナンバー2の権力を持っていた。

その世子が無惨に殺された事件が起こったのは1398年のことだった。

この事件を説明する前に、初代王だった太祖(テジョ)の子供について説明しなければならない。

彼の場合、第一夫人だった神懿(シヌィ)王后との間に6人の息子がいた。上から、芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳毅(バンイ)、芳幹(バンガン)、芳遠(バンウォン)、芳衍(バンヨン)である。

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しかし、この中に世子はいなかった。

なぜなら、太祖は第二夫人の神徳(シンドク)王后との間に生まれた芳蕃(バンボン)と芳碩(バンソク)のどちらかを世子にしようとしたからだ。それは、寵愛する神徳王后に懇願された結果だった。

結局、芳碩がとても頭脳明晰だったので、まだ10歳に過ぎなかった八男の彼が世子になった。

ドラマ『六龍が飛ぶ』は朝鮮王朝の初期を扱った作品として有名だ。(写真=韓国SBS)

朝鮮王朝の基盤を作った大王

この決定に激怒したのが五男の芳遠だった。

彼は朝鮮王朝が建国されるときに政敵を排除する働きをしている。太祖の息子たちの中では一番の実力者でもあった。

そんな彼が15歳も年下の異母弟に世子の座を奪われてしまった。容認できるわけがなかった。

芳碩の後ろ盾になっていた神徳王后が1396年に世を去ると、芳遠はすぐに行動に移し、自分の私兵を強化した。

そして、1398年に芳遠は挙兵して、芳蕃と芳碩を襲って殺害した。こうして、世子であったのに芳碩は無惨に命を断たれたのだ。

このとき、太祖は存命だったが、病床にあって世子を救うことができなかった。

世子を殺して実権を握った芳遠は先に兄の芳果を2代王に即位させて、後ろから政権を操った。そして、1400年に3代王に就いて太宗(テジョン)となった。

彼は朝鮮王朝の基盤を作った大王であったのだが、骨肉の争いで異母弟の世子を惨殺したという非道は決して消えることはなかった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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