歴史的な人物を取り上げるとき、国王の名前は尊号である。これは、亡くなった後に付けられた名前であり、生前にその国王はそう呼ばれたことがない。すべて死後の名前が今も語られているのだ。
そして、歴史上で「太祖(テジョ)」と言うと、2人の人物が該当する。それは果たして誰であろうか。
最初の「太祖」は、高麗(コリョ)を建国した王建(ワン・ゴン)のことだ。
彼はなんと、国を発展させるうえで地方の豪族と次々に婚姻関係を結んだと言われている。その結果、29人の妻がおり、25人の息子と9人の娘をもうけた。こうした王建の戦略は功を奏し、政略結婚を通して国政が安定したのだ。
そんな王建は、943年に亡くなったが、遺言として「仏教を大切にすること」を強調した。それによって、高麗はずっと仏教国家であり続けた。
その高麗を倒したのが、元は高麗の武将だった李成桂(イ・ソンゲ)だった。
彼は1392年に高麗を滅ぼして朝鮮王朝を建国した。
真っ先に行なったことは、仏教を排斥して儒教を国教に指定したことだった。
というのは、高麗は仏教を優遇しすぎて、僧侶が広大な私有財産を築いて政治に介入し、国が衰退する原因を作ってしまった。
こうした事実に懲りて、李成桂は仏教の排斥を決断したのだ。彼自身は熱心な仏教徒であったが、政治家としては現実的な判断をしたのだった。
それによって、朝鮮王朝は徹底的な儒教国となり、身分制度が厳格に適用され、男尊女卑の傾向が強くなった。
この李成桂は1408年に亡くなったが、直後に尊号が「太祖」になった。
こうして、王建と李成桂が同じく「太祖」と呼ばれた。
2人いるのは仕方がないのだ。王朝を創設した初代王は中国でも「太祖」と呼ばれるのが原則であり、朝鮮半島もそれにならったのである。
とはいえ、現代の韓国では高麗より朝鮮王朝のほうが影響力がはるかに強いので、普通に「太祖」と言えば、それは李成桂のことだ。一方、王建の場合は、時代劇のタイトルにあるように、「太祖王建」と重ねて呼ぶことが一般的になっている。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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