【サク読み韓国史】王建の遺言を守り強国に発展した高麗王朝

2020年05月11日 歴史
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936年、朝鮮半島は王建(ワン・ゴン)が作った高麗によって再び統一され、“高麗時代”が開かれた。

王建はその後、国家の安定のために政略結婚を進めており、領土内に住む27の豪族からそれぞれ女性を迎え、自らの妻とした。

これは、地方の豪族たちが王権を揺るがすことを防ぐためだ。

また、新羅(シルラ)の貴族や豪族の多くを家臣として加えると、府・州・郡・県といった地方を治めさせ、国内の基盤を固めた。国内勢力の統一に力を注いだ王建は、943年、67歳で死去する。

偉大な始祖の教えを守り、高麗は順調に発展を遂げる。

第4代王の光宗(クァンジョン)は、奴隷に一定の自由を与える「奴婢安検法(ノビアンゴンポプ)」を施行しており、これは豪族が持つ財産(奴隷)を奪うことにつながった。豪族が弱体化することで、相対的に王権強化をもたらしている。

993年からは、数回にわたって契丹の侵攻があった。当時の高麗朝廷には北方の領土を要求する契丹に降伏しようという意見もあったが、外交官・徐煕(ジョ・ヒ)などが反対。

侵攻を防ぎきれず契丹に内政干渉を受けた時期もあったが、1010年に契丹が40万の大軍で侵攻した際、第8代王・顕宗(ヒョンジョン)はそれを撃破している。

王建と光宗が礎を築き、外敵の侵攻も撃破したが…

1018年の契丹第5次侵攻に対しては、武将・姜邯賛(カム・ガンチャン)が活躍。牛の革で川の水をせきとめ、契丹軍が川を渡ると同時に堰を爆破して攻撃した。10万の契丹軍のうち、生きて契丹に戻った兵士は数千人だったという。「亀州の大勝利」と呼ばれている。1020年に両国の友好関係は回復した。

高麗時代​​​

だが、12世紀後半になると、王に代わって武臣たちが実権を握ることになる。

その武臣政権は100年も続き、高麗の国力を低下させた。紆余曲折はあったにせよ、それまで強国として発展してきた高麗が、このときから滅亡の道を進むことになる。

1259年からはチンギス・ハンが建国したモンゴル帝国(元)の侵攻が相次ぎ、同年に第24代王・元宗(ウォンジョン)が投降したことで、高麗は属国の地位に落ちてしまった。

高麗が主権を取り戻したのは、第31代王・恭愍王(コンミンワン)になってから。

彼は中国で明(みん)が台頭すると、親明政策を打ち出して、それまで強要されていたモンゴルの風習を排除した。のちに朝鮮王朝を建国する李成桂(イ・ソンゲ)を高麗の武将として登用したのも恭愍王だ。

高麗の最後は、その李成桂によるクーデターだった。明を討とうと目論んだ第32代王・禑王(ウワン)や高麗の将軍・崔瑩(チェ・ヨン)の指示の下、明討伐の遠征に赴いた李成桂。

しかし、彼は北上した軍を南下させて、高麗の都を襲撃したのだった。

その後も高麗王朝は、第33代王・昌王(チャンワン)、第34代王・恭譲王(コンヤンワン)と続いたが、李成桂の傀儡に過ぎなかった。こうして1392年、高麗は滅亡したのだった。

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