初代王の太祖(テジョ)には子供が多かった。第一夫人の神懿(シヌィ)王后との間に6男2女、第二夫人の神徳(シンドク)王后との間には芳蕃(バンボン)、芳碩(バンソク)という2人の息子がいた。そして、後継ぎとして指名されたのは、わずか10歳の芳碩だった。
そうなると、神懿王后の息子たちの反感がとても大きい
特に五男の李芳遠(イ・バンウォン)は25歳で血気盛んだった。
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それにしても、なぜ太祖は一番下の息子を世子にしたのか。それは、寵愛する神徳王后から懇願されたからだ。このあたりは、太祖も判断を誤ったとしか言いようがない。
その結果、多くの問題が起こってしまった。特に、父を助けて朝鮮王朝の建国に尽力した芳遠を無視したことは大きな火種となった。
もちろん、芳遠が手をこまねいているわけがない。神徳王后が1396年に世を去ると、彼は争いを起こす動きを果敢に見せるようになった。
芳遠はまず何をやったのか。
彼は芳碩の後ろ楯となっていた実力者の鄭道伝(チョン・ドジョン)を襲って殺してしまった。1398年のことだった。
その後、芳遠は異母弟の芳蕃と芳碩を殺害している。
まだ太祖は生きていたのだが、病床にあって身動きができず、芳遠の挙兵を阻止することができなかった。
その後、芳遠は父に代わって最大の権力者となった。しかし、すぐに王にならなかった。
まずは、兄の芳果(バングァ)を先に2代王にすえて、ほとぼりがさめてから3代王・太宗(テジョン)として即位した。1400年のことだ。
そして、神徳王后に対する憎しみを露骨に見せた。神徳王后は、王妃にふさわしい墓に埋葬されていたのだが、太宗は神徳王后の身分をどん底まで下げたあと、墓を破壊して無縁仏のように放置した。
ここまで継母に対して怒りを露わにした太宗。自分が太祖の後継者に指名されなかったことをずっと根に持っていたのだ。
それでも、太宗は王としては実力通りの政治を行ない、朝鮮王朝の基盤を整備した。朝鮮王朝が518年間も続いたのは、太宗の功績がとても大きい。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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