まさに実録『六龍が飛ぶ』の世界…骨肉の争いで血にまみれた朝鮮王朝の黎明期

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1392年に太祖(テジョ)が建国した朝鮮王朝だが、最初は後継者をめぐって兄弟同士が殺しあった。勝ち抜いて1398年に2代王の定宗(チョンジョン)が即位した。しかし、実権を握っていたのは弟の李芳遠(イ・バンウォン)だった。彼は太祖の五男で、間違いなく朝鮮王朝の最大の実力者だった。

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その芳遠にとっての誤算は、兄の芳幹(バンガン/太祖の四男)が王になりたいという野望を持って1400年に乱を起こしたことだ。

しかし、実力者の芳遠の相手にならず、あっさりと敗れた。そして、芳遠はお飾りだった定宗を退位させて、自ら3代王・太宗(テジョン)として即位した。

朝鮮王朝が結局は518年も続く長寿王朝になったのは、太宗が国の基盤を徹底的に整備したことも大きかった。

写真=『六龍が飛ぶ』公式サイトより

身内同士の権力闘争

そして、太宗の三男がハングルを創製した4代王の世宗(セジョン)だ。彼が兄2人をさしおいて国王の座を得ることができたのは、すばらしい学識の持ち主だったからだ。実際、彼は歴史に残る名君だった。

こうなると、後を引き継ぐ人が大変だ。1450年に世宗が世を去ると、長男の文宗(ムンジョン)が5代王となった。

彼は頭がよかったが、病弱でわずか2年3カ月の在位で亡くなった。6代王には文宗の長男の端宗(タンジョン)が就くが、まだ11歳だった。 端宗はかなり心細かったはずだが、そんな端宗に頼りになるのが叔父だった。世宗の二男で文宗の弟の首陽大君(スヤンデグン)である。しかし、この男が逆に危険人物で、甥から王座を強奪して自分が世祖(セジョ)という王になり、甥を結局は殺してしまう。

このように、朝鮮王朝の初期には、身内同士の権力闘争が多く、たくさんの悲劇が生まれている。まさに、王朝の歴史は血にまみれていたのだ。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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