朝鮮王朝の初代王・太祖(テジョ)の五男として生まれた芳遠(バンウォン)は、異母弟たちを殺して権力を掌握し、1400年に3代王・太宗(テジョン)として即位した。その陰には、妻である元敬(ウォンギョン)王后の支えがあった。
太宗は1382年に元敬王后と結婚したのだが、権力闘争の最中には、妻が政敵の急襲をいち早く知らせるなど夫をしっかり助けた。
このように、とても頼りになる妻だった元敬王后なのだが、夫が即位した後は冷遇され、なんと実家が夫によって滅ぼされてしまった。
太宗がそうした理由は、外戚を排除して王朝を長く存続させるためだった。しかし、元敬王后は絶対に夫を許せなかった。その結果、太宗と元敬王后の夫婦仲は完全に冷え切ってしまった。
確かに、元敬王后の支えによって、太宗は王になることができた。ただ、太宗からしてみれば、妻の実家も危険な勢力の一つだったのである。その標的となったのが元敬王后の兄弟たちだった。
1410年、元敬王后の2人の兄と2人の弟は罪を捏造された上に処刑されてしまった。彼女は夫を激しく恨んだ。すると、太宗の側近たちから元敬王后の廃妃を望む声があがった。
「王妃に対し冷酷な態度を取ってきた王様のことだから、廃妃にするに違いない」
周りの人々は思っていた。
しかし、太宗は元敬王后を廃妃にしなかった。いくら冷酷な国王でも、自分を王にさせてくれた妻を離縁することまでは考えていなかった
とはいえ、実家を滅亡させられた元敬王后の傷が癒えるわけではなかった。
そんな寂しい晩年を過ごしていた彼女の唯一の救いは、1418年に三男の忠寧(チュンニョン)が4代王・世宗(セジョン)として即位したことである。それを見届けたうえで、元敬王后は1420年に亡くなった。享年は55歳であった。
元敬王后の人生は実家の滅亡という悲劇に襲われてしまったが、彼女は歴史的に史上最高の聖君となった世宗の母として尊敬を集めた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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