名君・世宗は三男坊だったのに王になれたのはなぜ?

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朝鮮王朝屈指の名君とされる世宗(セジョン)。第3代王・太宗(テジョン)の三男として1397年に生まれた彼は、本来ならは世子にはなれなかった。

というのも、世子(セジャ)とは王世子の略。日本語では王子を指すが、同時に正統な王位継承者を意味する。

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世子に選ばれるのは、王とその正妻である王妃の間に生まれた嫡子長男というのが一般的で、太宗も当初は長男の譲寧大君(ヤンニョンテグン)に譲位しようとしていた。

しかし、譲寧大君は幼い頃から母方の実実家で育てられたていたため外戚と仲が良く、譲寧大君が世子になると外戚たちも権力欲を見せるにうなり、譲寧大君自身も傲慢になって素行的にも問題になった。

耐えかねた太宗は1418年6月、譲寧大君擁護派の重鎮たちの反対を押し切って譲寧大君の王位継承権を剥奪。三男である忠譲(チュンヤンテグン)大君を世子に指名した。

ソウルの中心部にある世宗王像

ちなみに次男の考寧大君(ヒョニャンテグン)は仏教に傾向し、出家することになる。

そして3ヶ月後の1418年8月、太宗は譲位して世宗の治世が始まることになる。

幼い頃から学問を好み、便所に行くときも本を手放さなかった忠譲大君を、太宗は「頭脳明晰で学問にも長け、政治についてもよくわかっている」と評価していたそうだ。

映画『私は王である!』はこの3ヶ月の空白をヒントにしている。

文=慎 武宏

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