【韓ドラになった歴史人】『風と雲と雨』の興宣大院君はなぜ息子を国王にさせることができたのか

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韓国時代劇には19世紀後半を舞台にしたドラマが少ないが、その中でも『風と雲と雨』は史実をよく取り入れた傑作になっている。主役のパク・シフが演じたのは最高の易術師のチェ・チョンジュンだが、この人物は架空の設定だ。

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しかし、チェ・チョンジュンが命をかけて闘う宿敵が、実在の興宣大院君(フンソンデウォングン)であり、重鎮俳優のチョン・グァンリョルが扮していた。

この興宣大院君は『風と雲と雨』では裏がありすぎる人物として描かれていたが、実際にはどういう男だったのだろうか。

生まれたのは1820年で、本名は李昰応(イ・ハウン)という。彼は王族の一員であり、21代王・英祖(ヨンジョ)の玄孫に該当していた。しかし、10代のときに両親が亡くなっており、王族といっても立場が弱く、経済的に恵まれなかった。

当時、王宮で権力を握っていたのは安東・金氏(アンドン・キムシ)の一族だった。存在感が弱い李昰応は安東・金氏に取り入ろうとして必死だった。卑屈に物乞いのような真似もしなくてはならなかった。

『風と雲と雨』の興宣大院君
『風と雲と雨』でチョン・グァンリョルが興宣大院君を演じた(写真提供=© 2020 TV Chosun)

政治の表舞台で様々な改革を行った人物

李昰応はずっと忍耐の日々を過ごした。しかし、二男の命福(ミョンボク)がとても優秀だった。国王の哲宗(チョルジョン)には息子がいなかったので、李昰応は二男を王位に就かせようと虎視眈々と機会をうかがった。そのためには、権力者たちを油断させなければならない。そういう狙いがあって、李昰応は欲を出さず、常に目立たないようにしていた。

1863年、哲宗が亡くなると、後継者争いが勃発した。李昰応はここぞとばかりに暗躍し、影響力が大きかった神貞(シンジョン)王后の推挙を勝ち取ることができた。こうして、命福は26代王・高宗(コジョン)として即位することができた。

高宗は11歳だったので、必然的に摂政が必要になる。そこで、李昰応が国王に代わって政治を仕切るようになり、興宣大院君と呼ばれるようになった。この「大院君」というのは、国王の父親の中で自分は国王になっていない人を指す尊称である。

政治の表舞台に立った興宣大院君は様々な改革を行い、景福宮(キョンボックン)の再建などを実施した。しかし、民衆の負担が大きくなりすぎて、興宣大院君の政治は不評だった。後に、高宗の妻となった明成(ミョンソン)皇后と対立するようになり、興宣大院君はあえなく失脚している。

【興宣大院君(フンソンデウォングン)の人物データ】

生没年
1820年~1898年

主な登場作品()内は演じている俳優
『明成王后』(ユ・ドングン)
『Dr.JIN』(イ・ボムス)
『緑豆の花』(チョン・グクファン)
『風と雲と雨』(チョン・グァンリョル)

文=大地 康

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