傑作時代劇『トンイ』では、チ・ジニが扮する19代王・粛宗(スクチョン)が女性問題で物議をかもしていたが、実際にも歴代の国王にはトラブルがつきものだった。今回は7代王の世祖(セジョ)に関する話だ。
彼の父であった4代王・世宗(セジョン)は、病弱だった長男(後の5代王・文宗〔ムンジョン〕)に対して、「王家の血を絶やさないように」と早い時期での結婚を勧めていた。
その忠告を守って、文宗は合計で3回も結婚する羽目になった。彼は、最初の2人の妻との間には子供がいなかったが、3人目の顕徳(ヒョンドク)王后との間にようやく息子を授かった。
しかし、息子の出産は難産だった。体力を使い果たした母は、息子を出産した3日後に亡くなった。しかし、彼女は死の淵にあっても息子への愛情だけは忘れなかった。
「私はこの子の面倒を見ることができません。この子が立派な王になれるようにお願いします」
自分の命が尽きようとしているのに、最期まで息子を思う顕徳王后の愛情は、多くの人を感動させた。
1450年に文宗は即位したが、わずか2年で世を去った。そのとき、息子はわずか11歳だったが、6代王の端宗(タンジョン)となった。しかし、野心に燃えていた首陽大君(スヤンデグン/世宗の二男)が黙っているとは思えなかった。
この予想はすべてが的中してしまう。端宗が即位して3年後には、叔父にあたる首陽大君が強引に王位を奪い、世祖として1455年に即位した。非道な手段で王になった世祖は、批判する者を徹底的に処罰した。
「いつまでたっても批判がやまないのは、端宗が前王として生きているからだ」
世祖はこう考えて、端宗の身分を庶民にまで降格させた上で殺してしまった。このとき、端宗はまだ16歳だったのだが…。
その後、世祖には不幸が重なった。後継者として17歳の長男・懿敬(ウィギョン)が指名されたが、彼はまもなく死んでしまった。一説には、昼寝をしている間に恐ろしい夢にうなされて絶命したという。
晩年の世祖自身も重い皮膚病に苦しめられた。世間では、顕徳王后の呪いだと噂した。
「本当に呪いなのか?」
世祖は苦しんだ末に世を去った。彼の二男が次の王として1468年に即位したが、わずか1年で死去した。ここまで不幸が重なると、世間が「祟(たた)りだ!」と言うのも無理はなかった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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