朝鮮王朝には27人の国王がいたが、死後の尊号が贈られなかったのは、10代王・燕山君(ヨンサングン)と15代王の光海君(クァンヘグン)だけだ。この2人はクーデターで廃位になったので、死んだ後も王子時代の名前で呼ばれた。そういう事情があったので、かつては両人とも暴君と称された。
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もちろん、燕山君は正真正銘の最悪暴君だったが、光海君はどうだったのか。近年になって歴史研究が進むと、彼はむしろ「名君では?」と言われるようになった。そこで、光海君が本当は何をやったのか、を検証してみよう。
14代王の宣祖(ソンジョ)は、問題をはらむ長男の臨海君(イメグン)を見限り、次男の光海君を王位継承者に指名した。しかし、その運命は、永昌大君(ヨンチャンデグン)の誕生と共に再び変動する。光海君は側室の子であった一方、永昌大君は正室の子で嫡男だった。
宣祖が1608年に亡くなった後、わずか2歳の永昌大君が王位に就くことは不可能で、すでに定められていた通り光海君が15代王の座についた。その王位を安定させるべく、彼の側近たちは臨海君と永昌大君の命を奪った。
こうして光海君側による兄弟への仕打ちは、反対勢力から厳しい目を向けられる結果となった。しかし、国王としての資質がまず問われるべきである。事実、光海君は優れた政治家として、卓越した手腕を見せつけた。
光海君の統治時代、朝鮮半島北部では後金が力を増しており、中国大陸の支配者であった明と深刻な対立が続いていた。明からの援軍要請に対しても、光海君は単純には受け入れず、明への過度な同調が後金の反感を買うことを懸念した。
光海君はその一方で、明と後金との間で独自の外交政策を展開した。つまり、どちらが勝っても朝鮮王朝が生き延びる道を模索したのである。この戦略はとても巧みだった。
彼はまた、内政面でも減税政策に努め、庶民の減税を可能にする法律「大同法」を制定し、都の近郊からその施行に取り組んだ。しかし、油断したことが致命傷となった。1523年、宣祖の孫である綾陽君(ヌンヤングン)が起こしたクーデターにより、光海君は王宮から追放されてしまったのである。
その結果、光海君は燕山君と同じように死んだときに尊号をもらえなかったが、2人の国王の業績は真逆だった。同列に論じるのは、光海君があまりに気の毒であった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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