歴史上の人物の評価というのは後世になってもあまり変わらないのだが、ごくまれに劇的に一変する人もいる。典型的なのが光海君(クァンヘグン)だ。彼の評価が逆転した例を見てみよう。
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1608年、14代王・宣祖(ソンジョ)が世を去り、二男の光海君が15代王として輝かしい即位を果たした。彼の目には絶対の信念が宿り、一部の忠臣から全身全霊の支持を受けていた。彼らは、果敢な行動力を武器に、王位の安泰を図るため、血塗られた粛清を始めた。
兄の臨海君(イメグン)は遠い荒野に追放され、絶望の淵に立たされた。さらに、異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)という温和な弟は、権力闘争の犠牲となり命を奪われた。さらに、継母である仁穆(インモク)王后は離宮に幽閉されてしまった。すべては光海君の側近たちが王位を守るために過剰に権力を行使した結果だった。
しかし、揺るぎないはずの光海君の王位は、逆風の始まりとともにその輝きを失い始めた。血塗られた粛清の過程で、彼は多くの反対者を生み、敵意を育ててしまったのだ。
とはいえ、光海君は戦火によって荒れ果てた国土の復興に全力を尽くし、民の生活の安定に力を注いだ。また、北方の異民族国家である後金との駆け引きを巧みに行ない、外交の成功を収めた。これらの功績は、彼の名声を高めた。
だが、その功績とは対照的に、彼が兄弟を殺害した過去が再び取り沙汰され、側近たちのあせりは光海君の地位を揺るがせた。
1623年、仁祖(インジョ)という狡猾で計算高い男が巧みにクーデターを主導し、光海君は宮廷から追放された。その結果、16代王の座には仁祖が即位した。光海君は、済州島(チェジュド)に流され、66歳で生涯を閉じた。この時点で彼は暴君と呼ばれた。
時間の流れとともに、光海君の評価は変わり始めた。歴史研究が進むにつれて、彼の善政が再評価され、真に称賛に値する国王としての資質が見直されるようになったのである。
暴君から名君へ。光海君ほどその後の評価が一変した国王は他にいない。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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