【反逆の時代】光海君の王位転落と仁祖の無惨な屈辱はなぜ起こったのか

2023年07月05日 歴史 #康熙奉コラム #写真
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光海君(クァンヘグン)は1608年に歴代15人目の王として即位した。彼を擁立する勢力は、王位の安定化をもたらすために、血塗られた粛清の旅路に足を踏み入れた。兄の臨海君(イメグン)を遠い地へと配流し、絶望の淵に突き落として自らの命を絶たせたのだ。さらに、弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)の生命も奪い、仁穆(インモク)王后を悲しむ時間すら与えず幽閉した。

【関連】光海君と仁祖は悪夢のような「伯父と甥」の関係だった!

こうして光海君の王位は磐石のように思われたが、その果てに待ち受けていたのは、皮肉にも逆の結果であった。血塗られた粛清は多数の政敵を生み出してしまったのだ。

政治的な視野から見れば、光海君は戦火によって荒廃した大地の再生と、民の安寧を目指し、努力を重ねていた。北方の異民族国家、後金との緊張した関係にも彼は巧みな外交術を繰り出し、成功を収めていた。

しかし、光海君の側近たちが世間の非難の矛先に立たされると、彼は兄弟を殺した悲劇が再び取り沙汰された。結局、光海君を王の座から引きずり下ろす動きが急速に勢いを増していった。1623年、クーデターによって光海君は宮廷から締め出され、クーデターを主導した仁祖(インジョ)が16代目の王となった。

だが、仁祖の治世は失政の連続であった。特に、外交政策の失敗が重なり、1636年12月には、後金から清に国号を変えた大国が12万の兵力をもって朝鮮半島へ侵攻してきた。仁祖に残された選択肢と言えば、都の郊外にある南漢山城(ナマンサンソン)に籠もり、防備を固めるしかなかった。

『華政(ファジョン)』で光海君に扮したチャ・スンウォン(左)と仁祖を演じたキム・ジェウォン

朝鮮王朝最大の辱め

南漢山城の中では、降伏論と抗戦論が水掛け論のように続き、何の解決も見えず、40日余りが経過した。窮地に立たされた仁祖は、清への全面的な降伏を決断した。しかしながら、清から提示された降伏条件は、想像を絶する屈辱的なものであった。

それは、三田渡(サムチョンド/漢江〔ハンガン〕のほとり)に設けられた場所で、仁祖自身が清の皇帝の前に膝をつき、頭を下げるというものであった。この事実は朝鮮王朝最大の辱めとされ、「三田渡の屈辱」という名で語り継がれていくこととなった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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