時代劇『トンイ』では、張禧嬪(チャン・ヒビン/演者イ・ソヨン)の死罪が決定的になったが、それを命じたのが粛宗(スクチョン/演者チ・ジニ)であった。史実では、臣下たちが反対意見を続々と提出した。中でも数名の重臣たちが連名で提出した上訴文には、切実な思いが込められていた。
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「多くの臣下たちが心配しているのは、東宮(トングン/世子)のことです。まだ幼い東宮は衝撃を受けて心が傷つくおそれがあります。私たちとしても、世子のために殿下の厳命を受け入れられない場合があります」
その文言には、未来の王を守りたいという深い忠誠がにじんでいた。
何よりも、重臣たちは王朝の前例を熟知していた。脳裏に焼きついていたのは、廃妃・尹(ユン)氏のことだ。9代王・成宗(ソンジョン)の正室であった尹氏は、王の信頼を失い、勅命によって廃妃とされ、ついには死罪となった。
その息子こそが10代王・燕山君(ヨンサングン)であり、彼は母の無念を晴らすため、死罪に関わった官僚たちを次々と惨殺した。血の匂いが王宮を覆い、朝鮮王朝最大の惨劇として歴史に刻まれた。
この大事件が、粛宗の側近たちの心を暗くしていた。彼らは虐殺が繰り返されることを恐れ、粛宗に諫言した。母を失った世子が将来的に憎悪に支配された王となるのではないか、と。しかし、粛宗の心はすでに怒りの炎に包まれていた。どんな忠言もその炎を鎮めることはできなかった。
粛宗も燕山君の暴挙を熟知していたにもかかわらず、自らの感情を抑えきれず、張禧嬪の罪を“死”によってのみ終わらせようとした。理性よりも激情が勝り、彼の決断はもはや後戻りできない地点に達していた。
それでも、反対の上訴文は途絶えなかった。臣下たちは最後まで筆を折らず、命を懸けて訴え続けた。しかし、粛宗はついにその意志を変えることがなかった。
1701年10月に仁顕王后が亡くなってから2カ月後、張禧嬪は死罪となり、その生涯に終止符を打った。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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