【王族の姑と嫁】仁粋大妃が証明したのはどんな「現実」だったのか

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朝鮮王朝の9代王だった成宗(ソンジョン)には子供の数が多かった。なにしろ、28人の父親になっている。その中で正室が産んだのは3人だけであり、あとの25人は側室から生まれている。いかに側室の数が多かったか、ということを如実に示している。

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そんな成宗の母親は、朝鮮王朝の王室で最も学識があったと称された仁粋大妃(インステビ)である。彼女は王族女性の修身の教科書と言われた『内訓(ネフン)』という書物まで執筆している。どれほど頭が良かったのか。とにかく、時代劇にもよく登場するキャラクターなので、今の韓国でも本当によく知られた女性である。

史実の仁粋大妃は感情が激しい人だったと言われている。そんな彼女が姑として気に入っていた嫁が、成宗の最初の正室だった恭恵王后(コンヘワンフ)だ。

彼女は1456年生まれで、11歳のときに成宗と結婚した。年齢は成宗より1歳上だった。

以後、仁粋大妃と恭恵王后は姑と嫁として最良の関係を保っていた。

しかし、恭恵王后は体調がよくない時期が多かった。

その末に、彼女は18歳で亡くなってしまった。

そのとき、仁粋大妃が問題にしたのが成宗の側室だった尹氏(ユンシ)の存在だった。

写真=『仁粋大妃』公式サイトより

姑の立場が圧倒的に強い

仁粋大妃は尹氏のことを「あの女はそもそも育ちが悪いし、性格が野心的すぎる」とみなしていた。それが理由で極端に尹氏を嫌っていたので、恭恵王后が早世したときは「尹氏が中殿(王妃のこと)の死に関係があるかもしれない。あの女が精神的な負担を与えたのに違いない」と疑っていた。

そんな尹氏が成宗の二番目の正室に選ばれた。それほど、成宗は尹氏を寵愛していたのだ。

しかし、結果だけを見ると、尹氏は廃妃になり最後は死罪になっている。

もちろん、尹氏も王妃として落ち度があったのだが、彼女を徹底的に排除したのが姑の仁粋大妃であった。

姑と嫁の仲が最悪になると、被害をもろに受けるのは、やっぱり嫁のほうなのである。間違いなく、姑の立場が圧倒的に強いのだ。そのことを仁粋大妃が確実に証明したと言える。

文=大地 康

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