1623年、朝鮮王朝16代王・仁祖(インジョ)は的確な統率力でクーデターを成功させて光海君(クァンヘグン)から王位を奪った。そこまでは有能だったが、国王になってから失政が続いた。
さらに、北方を支配していた後金を蔑(さげす)む態度を変えなかったので、後金が激怒した。1636年12月、後金は国号を清と変えて、大軍で朝鮮半島に攻めてきた。
【関連】【王朝の闇】「悲劇の王」とされる仁祖が重ねた悪政の数々
圧倒的な軍事力に対抗できず、仁祖は清の皇帝の前で屈辱的な謝罪を強いられた。それはあまりに情けない国王の姿だった。
それだけでは済まなかった。清は朝鮮王朝に対して莫大な賠償金と多くの人質を要求した。その人質として指名されたのが仁祖の長男・昭顕世子(ソヒョンセジャ)、二男・鳳林大君(ポンニムデグン)だった。2人は外国での人質生活を余儀なくされた。
昭顕世子は清で先進国の技術や文化に心を震わせた。西洋人とも交流を持った。一方、鳳林大君は清への恨みを忘れなかった。
清での2人の生活態度は仁祖にも報告された。そのとき、仁祖は憎き清と友好を深める昭顕世子に激怒していた。
1645年、昭顕世子と鳳林大君が人質生活から解放されて母国に帰ってきた。それなのに、仁祖は昭顕世子に対してそっけない態度を見せた。さらに、昭顕世子が帰国の際に持ち込んだ製品や書籍を見せると、仁祖はどなり散らした。
父の剣幕に驚いた昭顕世子は、まもなく原因不明のまま急死した。遺体は、黒ずんで腫れあがっていたという。明らかに毒殺された痕跡があった。
それなのに、主治医はまったく処罰されなかった。通常、王族が命を落としたら主治医が処分を受けるのが当然だったのに……。
加えて、仁祖は異様な態度を見せた。昭顕世子の葬儀を簡素に済ませたのである。世子の身分をあまりに軽視したのだ。
仁祖の対応を見ると、彼が昭顕世子を毒殺した疑いが濃い。仁祖は、昭顕世子の残された家族まで滅ぼしている。なぜそこまで残酷だったのか。
清を礼賛した昭顕世子はそれだけの理由で父王から命を奪われてしまったのだ。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【関連】【王朝の闇】王を毒殺しかけた「アワビ事件」を捏造したのは誰なのか
前へ
次へ