『チャングム』で文定王后の息子として登場した王子は将来どうなった?

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テレビ東京で8月28日に放送された『宮廷女官チャングムの誓い』第51話では、イ・ヨンエが演じたチャングムが大活躍をした。それは、慶源大君(キョンウォンデグン)が天然痘にかかってしまったときのことだ。母親の文定王后(ムンジョンワンフ)が取り乱してしまい、「我が子を絶対に救いたい」と願ってチャングムを頼ったのだった。

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チャングムはすでに庶民の天然痘の治療をうまく成功させて実績を作っていた。そんなチャングムは慶源大君の天然痘も見事に快癒させたのだ。それによってチャングムは絶大な信頼を得るようになった。

ところで、ドラマに登場していた慶源大君は、どういう王子だったのだろうか。彼の異母兄が中宗(チュンジョン)の息子だった世子である。彼は中宗の2番目の妻であった章敬王后(チャンギョンワンフ)から生まれた(病弱だった章敬王后は王子を産んで6日後に亡くなってしまった)。

その後、中宗の3番目の妻となったのが文定王后であり、彼女が1934年に産んだのが慶源大君だ。すると、文定王后は、慶源大君を王位に就けたいと欲深くなり、世子の命を狙うようになった。

1544年に中宗が亡くなったとき、本当に親孝行だった世子の悲しみは深く、食が喉を通らなくなった。それゆえ、彼は12代王・仁宗(インジョン)として即位しても体調が良くなかった。

『チャングムの誓い』
文定王后は息子が病気のときにチャングムを頼ったのだが……(写真=2003-2004 MBC)

苦難の多い国王

そんな中で、文定王后は仁宗に対して挨拶に来るように呼び出した。そして、上機嫌で餅を勧めた。親孝行の仁宗は断ることもできず、餅をそのまま食べた。しばらくすると、下痢がひどくなり数日後には高熱を発した。

医官たちの手厚い治療が続いたが、仁宗の容体は一進一退となり、最後には回復が望めないほどになった。そんな最中でも文定王后は不必要な外出を何度も繰り返して宮中を混乱させた。

結局、1545年7月に仁宗は30歳で亡くなった。彼には息子がいなかったので、異母弟の慶源大君が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。

結果から見れば、文定王后は未成年の明宗に代わって政権を独占して賄賂政治を横行させた。明宗は心苦しい日々を過ごしたが、母親の不正をただすことができなかった。そういう意味では、苦難の多い国王であった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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