朝鮮王朝の第15代王・光海君(クァンヘグン)は、韓国時代劇の主人公としてよく登場する。
最近ではヨ・ジングが一人二役を演じた『王になった男』でも、国王として光海君が主人公になっていた。そういう意味で、光海君は朝鮮王朝の27人の国王の中で特に注目される存在なのだ。
しかし、歴史上の光海君には非難される出来事がある。それは、王位を継承する過程で兄弟たちを殺していることだ。
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たとえば、光海君は1608年に即位した後に兄の臨海君(イメグン)の命を奪っており、さらに、1614年に異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺している。
そのうえ、永昌大君の母の仁穆(インモク)王后を幽閉して大妃の身分を剥奪した。
まだある。甥である綾昌君(ヌンチャングン)も反乱の罪を着せて殺害した。
こうした骨肉の争いは、朝鮮王朝の過去に何度もあったとはいえ、光海君の正当性を述べるときにはあまりに不利だった。
結局、綾昌君の兄の綾陽君(ヌンヤングン)は、光海君のことをとことん恨み、クーデターを狙うようになった。
そして、1623年に綾陽君は光海君を憎む人たちを集めて決起し、ついに光海君を廃位に追い込んだ。
そのとき、光海君はすぐに逃げたが捕らわれてしまった。
クーデターを成功させた綾陽君は、幽閉されている仁穆王后のところに報告に出向いた。
すぐに、仁穆王后は綾陽君の功績を称賛し、執拗に光海君の斬首を要求した。
しかし、綾陽君は拒んだ。先の国王を斬首するのは前例がなかったからだ。それなのに、斬首してしまったら、彼自身が後世で何を言われるかわからなかった。非難されることを恐れたのだ。
こうして綾陽君は16代王の仁祖(インジョ)として即位したあとも、光海君の斬首に反対した。ところが、仁穆王后は納得しなかった。
本当に仁穆王后は強硬だった。それほど、我が子を殺された恨みが強烈だったのだ。
最終的には、仁祖が自分の意見を通し、光海君を島流しで済ませた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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