【王朝の悲劇】『王になった男』光海君の追放なかったら朝鮮王朝はどうなっていたか?

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15代王の光海君(クァンヘグン)がクーデターによって廃位になったのは1623年であった。クーデターを主導したのは、光海君の甥であった仁祖(インジョ)だった。

彼の弟は光海君によって殺されている。その恨みが根強くて仁祖はクーデターを起こしたのである。こうして朝鮮王朝の政治は光海君から仁祖に移っていった。

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この政変によって世の中はどのように変わっただろうか。

光海君というのは、権力争いのときに兄と弟を殺している。それによって、暴君と呼ばれるときもあったのだが、彼は政治的に大変有能で2つの大きな業績を残している。

写真=韓国tvN『王になった男』ポスター

国王は絶対的な権力者

1つは、異民族の後金と外交でうまく立ち回って、後金の侵略を防いでいた。もう1つは、大同法という庶民の減税につながる制度を作って、税制改革を行なっていた。

この2つの政治によって、朝鮮王朝の安定はそれなりに保たれていた。しかし、仁祖は、逆のことを行なった。

後金とやたらと対立するような政治を行なって、結果的に後金の侵略を許して国内は大変なひどい目にあっている。さらに、光海君が進めた税制改革もやめてしまったので庶民の負担はかえって増える結果となってしまった。

このように、仁祖は光海君が行なっていた善政を翻してしまったので、朝鮮王朝はそれだけ混乱してしまった。つまり、仁祖が恨みによって光海君を王宮から追放しないほうがむしろ世の中は安定していたのだ。

光海君はとても頭がよくて、政治を正しい方向に導く力を持っていた。

一方の仁祖は、クーデターを成功させるまでは巧みな統率力を発揮していたが、王になってからは政治で失敗ばかりして国内が混乱するばかりだった。

歴史の世界で、タラレバの話をしてもしょうがないが、1623年のクーデターが起こらずに光海君が国王であり続けていれば朝鮮王朝はさらに発展した社会になっていたかもしれない。

それほど、朝鮮王朝の国王というのは絶対的な権力者であり、国の盛衰を大きく左右したのである。

文=大地 康

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