人気時代劇の『七日の王妃』では、パク・ミニョンが端敬(タンギョン)王后を美しく演じていた。史実の彼女は、1487年に生まれ、1506年に王妃になった。夫の中宗(チュンジョン)が11代王として即位したからだ。
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ところが、暴君だった10代王・燕山君(ヨンサングン)を廃位させるクーデターに成功した高官たちは強硬な対応を行なった。なんと、「王妃を離縁してほしい」と中宗に主張したのである。
中宗はすぐに拒否すれば良かったのだが、それができにくい事情もあった。端敬王后の身内に燕山君の関係者が多かったからだ。父親は燕山君の側近であり、燕山君の妻も端敬王后の叔母だった。高官たちは、燕山君一派の残党が端敬王后を取り込んで復讐を企てることを極度に警戒した。そのことが、高官たちが端敬王后を嫌った根拠になっていたが、実はもっと大きな理由もあった。
それは、端敬王后には息子も娘もいなかった、ということだ。
仮に、端敬王后に息子がいたなら、中宗の即位にともなって世子(セジャ)になっているはずだ。いくら強硬な高官たちも、世子の実母を廃妃にさせるというのは、当時なら絶対にできないことだった。
しかし、端敬王后には息子も娘もいなかったので、廃妃を防ぐ根拠が弱かった。それゆえ、国王になったばかりの中宗も廃妃を主張する高官たちに押し切られてしまったのだ。
こうしてわずか7日だけ王妃だった端敬王后は、寂しく王宮を去らなければならなくなった。実家に戻っても、すでに両親はいなかった。クーデターのときに真っ先に死んでいるからだった。
最初こそ、中宗も端敬王后を気遣って様々な経済的な援助を続けていたが、時が経つにつれて状況が変わってしまった。後に中宗は再婚もして王宮に慣れきってしまい、かつて妻だった端敬王后への追慕もなくなってしまった。
辛い現実ではあったが、端敬王后は「人の世の儚(はかな)さ」を感じながら、その後の余生を過ごさなければならなかった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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