時代劇『七日の王妃』では、ヨン・ウジンが晋城大君(チンソンデグン)を演じた。まずは、彼の家族を見てみよう。9代王・成宗(ソンジョン)の二男が晋城大君で、1488年に生まれた。母親は貞顕(チョンヒョン)王后である。
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異母兄の燕山君(ヨンサングン)が1506年にクーデターで王宮を追われて廃位になり、代わって晋城大君が即位して中宗(チュンジョン)となった。
彼は生涯で三人の正妻を持っている。最初が端敬(タンギョン)王后、二番目は章敬(チャンギョン)王后、三番目は文定(ムンジョン)王后である。
息子は、章敬王后が産んだ12代王・仁宗(インジョン)、文定王后が産んだ13代王・明宗(ミョンジョン)である。
以上の家族構成を見たうえで、本題となる中宗の「その後」を見てみよう。
『七日の王妃』でパク・ミニョンが演じたシン・チェギョンは、中宗の即位にともなって端敬王后となった。しかし、わずか7日で離縁された。
その後に中宗は章敬王后と再婚して、長男が1515年に生まれた。ところが、王妃は出産した直後に亡くなってしまった。そこで、中宗は三番目の正妻として文定王后を迎えた。
政治面の実績を見てみよう。
中宗は堂々たる王政を行なおうとしたが、クーデターを成功させた高官たちに頭が上がらず、独自性を発揮できなかった。
結果的に、趙光祖(チョ・グァンジョ)という優れた人物を側近に置いたが、趙光祖の理想が高すぎて中宗は能力的についていけなかった。最後は中宗も趙光祖を死罪にせざるを得なくなり、国内統治で失敗した。
その中で、悪女だった文定王后が好きなように暗躍して、政治が大いに乱れた。
それなのに、中宗は国王として毅然とした態度を取ることができず、文定王后の悪行をさらに許してしまった。そうした不本意な統治の末に、中宗は1544年に亡くなった。
もしも、あのときに端敬王后を離縁しなければ……。
少なくとも、悪女の文定王后に国内政治を乱されることはなかったはずだ。
本当に、残念な国王人生だった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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