【『七日の王妃』の総括/端敬王后】離縁された王妃は再び中宗に会えたのか

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時代劇『七日の王妃』では、端敬(タンギョン)王后をパク・ミニョンが演じていた。彼女は1487年に生まれ、夫の中宗(チュンジョン)の即位にともなって1506年に王妃になった。

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しかし、燕山君(ヨンサングン)を廃位させるクーデターを成功させた高官たちは、中宗に対して「王妃を離縁してほしい」という強い要求を行なった。

それは、端敬王后の父親が燕山君の側近であったからだ。また、燕山君の正室も端敬王后の叔母だった。このように、端敬王后の身内には燕山君と深い関係の人が多く、燕山君一派の残党たちが復讐をしかけてくることを極端に警戒されていた。

当初は離縁を拒絶した中宗だったが、結局は高官たちに従わざるをえなくなった。この点で、中宗は弱気すぎる国王だった。

離縁となってしまった端敬王后は。失意の中で王宮を去っていった。

『七日の王妃』ではパク・ミニョンが端敬王后を演じた(Licensed by KBS Media Ltd. © 2017 KBS. All rights reserved
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実現しなかった復縁

それから9年後のことだ。中宗の二番目の妻であった章敬(チャンギョン)王后は、1515年に産後の肥立ちが悪く、残念ながら亡くなった。このとき、王宮では端敬王后を復縁させる動きが起こった。それは、中宗も望むことであった。

しかし、最後はやはりクーデターを成功させた高官たちが強硬に反対して、復縁の話は実現しなかった。その末に文定(ムンジョン)王后が中宗の三番目の正室に選ばれた。

それは悪夢であった。文定王后は極端な悪女であり、朝鮮王朝を混乱させた元凶だったからである。

再婚に失敗した中宗は、1544年に危篤に陥った。

そのとき、端敬王后はいてもたってもいられず、王宮の正門に駆け付けた。一目、かつての夫に会いたかったのだ。しかし、非情にも再会は許されなかった。

こうして、中宗と端敬王后は1506年以来、一度も会えなかった。端敬王后も、無念な気持ちのまま中宗を送らざるを得なかった。
端敬王后が亡くなったのは1557年である。享年70歳だった。

王妃でいられたのはわずか7日。しかし、元王妃の身分は51年間だった。

かくも長き日々を端敬王后は耐え抜いたのである。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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