徳川「大奥」とは似て異なる「女の園」朝鮮王朝の「内命婦」とは

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日本のテレビドラマでもよく取り上げられた「徳川幕府の大奥」。その実態はどういうものだっただろうか。もともと「大奥」というのは、江戸城の中で御台所(みだいどころ/将軍の正室)を中心とした女性たちの居住空間のことだった。この場合の女性とは、将軍家の娘や世話役の係などが含まれていた。

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そんな「大奥」が法律的に制度化されたのは1618年のことで、以後は江戸城で男子禁制の場所となった。

「大奥」の一番の目的は将軍の世継ぎを産んで育てることだ。これは幕府にとっても一番重要なので、「大奥」は江戸城の中で一目置かれていた。

とはいっても、「大奥」が徳川幕府の政治に直接的に関与できたわけではない。あくまでも、「大奥」は将軍家の裏で女性たちが権力を奪い合うというのが精一杯であった。

ドラマ『トンイ』でも多くの女官たちが登場する(写真=SPORTS KOREA)

歴史を大きく動かす力

それでは、朝鮮王朝はどうだっただろうか。

徳川幕府の「大奥」に該当するものは、朝鮮王朝では「内命婦(ネミョンブ)」と言った。

この「内命婦」は、大妃(国王の母)、王妃を頂点として、側室、女官によって構成されていた。王宮の場所から見れば、王族女性は王宮の真ん中あたりに住み、その後ろに側室が居住し、さらに女官は王宮の最奥で暮らしていた。

「内命婦」は、徳川幕府の「大奥」に比べると、はるかに政治的な組織だった。もし国王が未成年で即位すると、大妃が摂政を行なって政治を仕切るというのが王朝のしきたりだったのだ。

そうした事情から、実際に女帝のようにふるまった大妃が朝鮮王朝518年間に何人も誕生している。たとえば、11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后、21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正室の貞純(チョンスン)王后、23代王・純祖(スンジョ)の正室の純元(スヌォン)王后など。彼女たちはまさに女帝であった。

そういうときにかぎって政治が乱れ、王朝を揺るがす事件が何度も起きている。それは、韓国時代劇でもよく題材になっていることであり、「内命婦」というのは歴史を大きく動かす力も持っていた。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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