朝鮮王朝の時代、釜山(プサン)の行政の中心は、子城台からさらに北に行った東莱(トンネ)であった。そして行政官庁があったのが、東莱邑(トンネウプ)城である。
東莱邑城は、もともと倭寇に対する防衛のため、高麗王朝時代の1021年に築かれたもので、城を囲む城壁の長さは、3.8キロであった。
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しかし日本の植民地時代などにその多くが破壊された。その後、1978年から部分的にではあるが、復元作業が行われている。
地下鉄1号線に乗って、総合バスターミナルがある老圃洞(ノポドン)方面に向かうと、やがて電車は、地上に出てくる。そこが東莱駅であり、この東莱駅か、次の明倫洞(ミョンニュンドン)の駅で降りて西に向かうと、東莱邑城がある。
まずは、朝鮮王朝時代における儒学の教育機関である東莱郷校を目指す。郷校横の細い道を、土塀に沿いながら上っていくと、城壁が見えてくる。それが復元中の東莱邑城だ。
東莱地区の高層アパート群を眼下に見ながら城壁に沿って歩いて行くと、かなりしっかりとした建物が見えてきた。西側の指揮本部・西将台だ。
その向こうに、北門がある。北門の近くには、東莱邑城歴史観があり、東莱邑城の全景を表した模型や、城の模型を見ることができる。
この歴史館からさほど離れていない所に、東莱邑城の戦いをはじめ、壬辰倭乱における釜山地域での戦いで犠牲になった人たちを祀った忠烈祠(チュウンニョルサ)がある。韓国の人たちにとっては、ここは聖地である。
門の外にある無名戦士を祀った忠烈塔という大きなモニュメントの横を通って敷地の中に入ると、「戦死易假道難」と書かれた石碑がある。
釜山鎮城を落とした小西行長率いる部隊は、朝鮮半島を北上すべく、東莱邑城を取り囲んだ。そこで小西行長らは、道を開けるよう、降伏を促した。
それに対し、この地域の行政の長である東莱府使の宋象賢(ソン・サンヒョン)は、この漢字6文字を木板に書いて、敵方に投げた。戦えば死に易いが、道を開けるわけにはいかない、という意味だ。
朝鮮側は、女性が瓦を投げるまでして抵抗し、必死に戦った。しかしながら、比較的平和な時代が長く続いていた朝鮮側は、戦国時代を戦い抜いてきた秀吉軍の攻撃に、なす術がなかった。
結局宋象賢は、この戦いで命を落としたのだった。とは言え、「戦死易假道難」という言葉は、護国の精神を象徴する言葉として、韓国で受け継がれている。
文・写真=大島 裕史
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