【深発見42】韓国のタブーだった光州=クァンジュ事件はいかにして世に知られたのか

このエントリーをはてなブックマークに追加

光州(クァンジュ)事件については、学生らの口から口へと伝えられていたが、韓国では公に語るのは長年タブーであった。

【関連】朝鮮王朝のタブー!! 秘められた情事に迫る

民主化の足がかりとなった、1987年6月の民主化抗争を受けて、89年12月に国会で開かれた光州特別委員会で、ようやく事件の一端が語られるようになったのだった。

1993年に軍人ではない金泳三(キム・ヨンサム)が大統領に就任すると、ようやく真相究明の動きが活発になった。

95年には、のちに『太王四神記』を製作したキム・ジョンハク演出、ソン・ジナ脚本の黄金コンビによる『砂時計』というドラマで、初めて光州事件がリアルに取り上げられた。

この時、軍の関係者は、軍に対する否定的な世論が高まるなどとして、放送の中止か、内容の変更を要請した。さらにこの年、全斗煥や盧泰愚(ノ・テウ)ら、事件の中心人物が、内乱罪などで逮捕された。

このように、事件の真相はかなり明らかになっているが、光州市民に対する発砲を誰が命令したかといった、核心部分はまだ明らかになっていない。

私は1980年代の終わりに初めて光州に行ったが、この時はまだ、事件について語るのはタブーといった雰囲気があった。

光州の中心部にあった全羅南道(チョルラナムド)の道庁(道庁機能は2005年に務安〔ムアン〕に移転)と、そこから伸びる錦南路(クムナムロ)は、事件の中心地として有名なので分かったが、他は、どこに何があるかの表示は全くされていなかった。

光州の北東部に事件の犠牲者が眠る望月洞(マンウォルドン)の墓地がある。事件の後、棺は戒厳軍が監視する中、清掃車に積まれて望月洞の市民墓地に運ばれた。私が初めて訪れた時も、草生す墓地には、当時の緊張感がまだ残っていた。

望月洞の墓地(著者撮影)

墓地には犠牲者の生年月日が記されているが、当時学生だった60年代前後に生まれた人が多かった。

1961年生まれの私と同世代の人が多いだけに、余計胸に迫るものがあった。その他、我が子のことを思って亡くなった当時、30代、40代であった人も少なからずいた。

文・写真=大島 裕史

【写真】『チャングム』のハン尚宮ヤン・ミギョン、「奇跡の59歳」と言える美しさ!!

【写真】『チャングム』親友ヨンセン、双子のバツイチ母になっていた…女優パク・ウネの現在

【写真】『チャングム』の「美しき悪女」キョン・ミリ、娘は芸能界で活躍中

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事