光州(クァンジュ)事件については、学生らの口から口へと伝えられていたが、韓国では公に語るのは長年タブーであった。
民主化の足がかりとなった、1987年6月の民主化抗争を受けて、89年12月に国会で開かれた光州特別委員会で、ようやく事件の一端が語られるようになったのだった。
1993年に軍人ではない金泳三(キム・ヨンサム)が大統領に就任すると、ようやく真相究明の動きが活発になった。
95年には、のちに『太王四神記』を製作したキム・ジョンハク演出、ソン・ジナ脚本の黄金コンビによる『砂時計』というドラマで、初めて光州事件がリアルに取り上げられた。
この時、軍の関係者は、軍に対する否定的な世論が高まるなどとして、放送の中止か、内容の変更を要請した。さらにこの年、全斗煥や盧泰愚(ノ・テウ)ら、事件の中心人物が、内乱罪などで逮捕された。
このように、事件の真相はかなり明らかになっているが、光州市民に対する発砲を誰が命令したかといった、核心部分はまだ明らかになっていない。
私は1980年代の終わりに初めて光州に行ったが、この時はまだ、事件について語るのはタブーといった雰囲気があった。
光州の中心部にあった全羅南道(チョルラナムド)の道庁(道庁機能は2005年に務安〔ムアン〕に移転)と、そこから伸びる錦南路(クムナムロ)は、事件の中心地として有名なので分かったが、他は、どこに何があるかの表示は全くされていなかった。
光州の北東部に事件の犠牲者が眠る望月洞(マンウォルドン)の墓地がある。事件の後、棺は戒厳軍が監視する中、清掃車に積まれて望月洞の市民墓地に運ばれた。私が初めて訪れた時も、草生す墓地には、当時の緊張感がまだ残っていた。
墓地には犠牲者の生年月日が記されているが、当時学生だった60年代前後に生まれた人が多かった。
1961年生まれの私と同世代の人が多いだけに、余計胸に迫るものがあった。その他、我が子のことを思って亡くなった当時、30代、40代であった人も少なからずいた。
文・写真=大島 裕史
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