百済(ペクチェ)の主な故地は、今日の忠清道(チュンチョンド)や全羅道(チョルラド)である。
その全羅北道益山(イクサン)で、2009年1月、歴史を塗り替えるような発見があった。
場所は、市内にある弥勒寺(ミロクサ)址。その発見は、韓国の新聞・テレビがトップで伝えるほどのビッグニュースであった。
弥勒寺址の石塔を解体しての補修工事が2001年から行われていたが、九層の石塔の最下層の中央に心柱石という大きな石があった。その上蓋となっている石を外すと、そこから金銅製の仏舎利容器や宝珠、仏舎利の他に、朱色で寺の縁起が書かれた黄金の延板まで発見された。
2009年1月20日付けの『東亜日報』はこのニュースを「1370年ぶりにベールを脱いだ“百済の秘密”“善花公主(ソンファコンジュ)創建”事実ではない」という見出しで報じた。
韓国の歴史書『三国遺事』に書かれている弥勒寺誕生の経緯は、おおよそ次のようなことだ。
ドラマ『薯童謡(ソドンヨ)』でお馴染みの百済の武王(ムワン、在位600~641年)は、当時激しい敵対関係にあった新羅の真平王(チンピョンワン、在位579~632年)の娘で、善徳女王(ソンドクヨワン、在位632~647年)の妹である善花公主(公主は王女)と結婚した。
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ある時、武王が善花公主とともに龍花山(ヨンファサン、今日の弥勒山)の獅子寺(サジャサ)に行く途中、突然池の中から、弥勒三尊が現れた。善花公主はこの地に大きな伽藍を築いたいと願い出て、武王もそれを許可したということだ。
ところが発見された黄金の延板に書かれた文字によれば、百済の高級貴族である沙乇積徳(サテク・チョットク)の娘が武王の王妃であり、その王妃が己亥年(639年)に創建したということだ。
武王の時代に創建されたという点では、『三国遺事』の記述は正しかったことになるが、善花公主に関する記述は事実と異なることが判明したわけだ。しかも、武王には最低2人の王妃がいたことになる。
それにしても、古代史関連の書物や『薯童謡』などのドラマの中にしかいなかった武王の存在が、1370年前のタイムカプセルが開けられ、我々の前に現れたことに、興奮を覚えた。
弥勒寺址については、以前から気になっていたが、そこにこの発見である。発見されたばかりの遺物を見るのは難しいだろうが、ともかく行ってみたいという思いに駆られた。そしてその年の6月下旬、ついに弥勒寺址に行くことができた。
文・写真=大島 裕史
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