百済の女性と言えば、私が初めて扶余に来た時、弥勒菩薩のような顔をした女性をよく見かけたことが気になった。
四半世紀ほど前はまだ、化粧の仕方などの関係で、ソウルの女性と地方の女性の顔はかなり異なっていた。それにまだ美容整形をする女性は少数であった時代である。地方の女性には、その地域独特の素朴さがかなり残っていた。
百済から日本には、仏師も多く渡っている。彼らが仏像を作る時、イメージしたのは百済の宮女ではなかったのか。
柳の葉のような細い目、少しえらの張った面長の顔。弥勒菩薩の顔立ちは、韓国女性の顔の特徴とかなり合致する。
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もちろんこれは、私の推論に過ぎない。それでも百済の王族の女性は、かなり美しかったことは、確かなようだ。
660年に扶余が陥落すると、百済最後の王である義慈王(ウィジャワン)や王族、民衆約1万3000人は捕えられ、多くは唐に連れて行かれた。
この義慈王のひ孫にあたる女性は、唐の諸侯と結婚しており、2008年に、その墓碑が発見された。
そこには、「南国の女性のように美しく、春の日の森や秋の紅葉のようだ。とても良い家に暮らしていたので、朝の陽ざしのように静かに動き……」と書かれている。夫余太妃と呼ばれた百済の王族の子孫は、それだけ品があったようだ。
皐蘭寺の前の河岸は、船着き場になっている。そこから船に乗り、落花岩を見ながら、河を移動するのがコースになっている。
しかし今回、私が行った時は夕方遅く、もう船は終了していた。そのため、下りて来た急な山道を、今度は登って戻らなければならなかった。
暑い中、これはかなりきつかった。山を登って、また市街地の方に下りた頃には、陽がもう暮れようとしていた。
船に乗れていれば、扶蘇山の西の外れの船着き場に着く。船を降りて土手に座ると、白馬江の対岸に山並みが見える。
幾重にも重なる山の景色は、なぜか癒される。その山並みは、飛鳥の景色にも似ている。扶蘇山もまた甘樫丘によく似ている。
百済滅亡後、多くの百済人が飛鳥の地に移住した。
彼らはこの地の景色を見て、扶余の都を思い出し、涙したに違いない。
そうした古代の人たちの思いがあるからか、扶余には哀感溢れる美しさがある。
その一方で、各所で発掘が進む今、仏教の都として栄えた扶余の真の姿が浮かび上がってくるだろう。
それはどんな姿か。日本の古代史を知る上でも、興味が尽きない。
文・写真=大島 裕史
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