「灼鼠(しゃくそ)の変」という有名な事件を知っているだろうか。これは、文定(ムンジョン)王后と鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)が共謀して仕組んだ悪の事件だった。
それは1527年に起こった。
11代王・中宗(チュンジョン)の息子だった世子(セジャ/王の正式な後継者)は12歳だった。
中宗の三番目の正室だった文定王后が世子の継母だったが、その継母がとんでもない悪女だったわけだ。
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発端は、世子の誕生日に、東宮(世子の住まい)にあった大木の枝に、焼かれたネズミの死骸が吊るされていたことだ。さらに、大殿(王の居室)のそばでも、焼かれたネズミの死骸が見つかった。
世子は子(ね)年だった。それだけに、ネズミの死骸は、世子の不幸な将来を暗示しているかのようだった。
徹底的な犯人捜しが始まった。しかし、犯人がまったくわからなかった。
そのうち、敬嬪・朴(パク)氏という側室が疑われた。彼女は中宗の息子を産んでおり、宮中でも立場が強かった。そんな彼女に怒りを向けていたのが文定王后で、巧妙な手口で敬嬪・朴氏を陥れた。そのときに暗躍したのが手先として動いて「灼鼠の変」を起こした鄭蘭貞だった。
こうして、文定王后は一番嫌っていた敵を王宮から追い出すことができた。
以後も、鄭蘭貞は文定王后の手先として悪行に手を染めた。
その中で一番恐ろしいのが、世子から即位した仁宗(インジョン)の毒殺だ。さまざまな時代劇でこの毒殺説が描かれているが、果たして本当に鄭蘭貞は国王を手にかけたのだろうか。真相はわからないが、文定王后の指図を受けた鄭蘭貞が大罪を犯した疑いが強い。
結局、文定王后はわが子を王位につけることに成功し、その後は政治を牛耳って悪政をはびこらせた。それに加担して、鄭蘭貞は汚れた財宝を数多く手に入れた。
結局、鄭蘭貞は「朝鮮王朝三大悪女」の1人として悪名をとどろかせるが、「悪の手先」がやったことによって、朝鮮王朝は悲劇の連鎖を繰り返すようになった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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