英祖が母親である淑嬪・崔氏から受けた影響とは?

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英祖(ヨンジョ)といえば、朝鮮王朝19代王の粛宗(スクチョン)と側室の淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)の息子として生まれ、21代王として即位した人物だ。

その淑嬪・崔氏は、時代劇『トンイ』の主人公として描かれた女性で、側室になる前は宮廷内で下働きをしていたため、彼女の息子である英祖は、幼いころから庶民の気持ちを理解できる人間になるように母親から教育されていた。

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結果、英祖は不正を働いた官僚を厳しく罰して、庶民に対する思いがとても強かった。その1つが徴税負担の軽減を行なったことであり、彼自身も質素倹約な生活を心がけていた。

しかし、それだけではない。英祖はさらに罪を犯した罪人の人権を認めており、不当な判決が起こった場合は王に直訴できるという制度を設けている。

さらに、各派閥から公平に人材を登用する蕩平策(タンピョンチェク)という政策も行なった。

左が21代王の英祖で右が英祖の母親のトンイこと淑嬪・崔氏

英祖の理想の政治

そのような功績をもつ英祖が即位してから4年が経ったとき、先王である20代王の景宗(キョンジョン)の死によって脅かされていた景宗を支持する者たちがクーデターを起こしたのである。

景宗は病弱だったこともあり、わずか在位4年2カ月で世を去っているのだが、景宗派はその理由を、英祖を支持する者たちが毒を持ったからだと主張し始めたのだ。

謀反を起こすにあたって志願兵を集め始めた景宗派だが、それに対して英祖はすぐに謀反に加担する者たちの捜索を始めた。

そんな英祖の行動に焦った景宗派は、李麟佐(イ・インジャ)を反乱の首謀者として政府への攻撃を始める。

反乱の大義名分を得るために李麟佐は景宗の位牌に朝夕礼拝を行ない、新たな王として選んだのは16代王・仁祖(インジョ)の長男である昭顕世子(ソヒョンセジャ)のひ孫だった。

こうして李麟佐は大軍を率いて漢陽(ハニャン)を目指して進軍したが、その反乱は失敗に終わってしまう。

その後も、無駄な争いを嫌っていた英祖は理想の政治を行なう環境を整えた。その影響もあってか彼の時代の政治は本当に安定していた。

文=大地 康

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