巫女のお祓いに奇行。自らの命を犠牲に息子の命を守った王妃がいた!!

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朝鮮王朝には合計で42人の王妃がいたが、その中で、女性禁制の王朝政治会議に勝手に出席して高官たちから注意されたのは、18代王・顕宗(ヒョンジョン)の正室だった明聖(ミョンソン)王后しかいない。

彼女は19代王・粛宗(スクチョン)の母親としてもあまりに有名だ。どんな女性だったのだろうか。

生まれたのは1642年だ。9歳だった1651年に、17代王の孝宗(ヒョジョン)の長男と結婚した。この長男が1659年に即位して顕宗となったので、明聖王后も17歳で王妃になることができた。

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彼女は1661年に長男を出産したが、その息子がわずか13歳で19代王の粛宗となった。それは、顕宗が急死してしまったからで、粛宗が王位を継いだのである。

韓国の九里(クリ)市に位ある顕宗(ヒョンジョン)と明聖王后の墓・崇陵(スンルン)。(写真出典=韓国学中央研究所)
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治療方法がわからない

こうして王の母となった明聖王后だが、まだ32歳の若さだった。しかし、彼女は一人息子の粛宗に対して何かと干渉するようになり、最後には、女性ながら政治に何度も口を出して高官たちから猛烈な反発を受けた。

そんな明聖王后は、41歳で亡くなってしまった。理由が彼女らしいと言える。とにかく、粛宗が大いに関係していた。というのは、粛宗が重病になって主治医も治療方法がわからないときに奇怪な行動に出たのだ。

具体的に説明しよう。明聖王后は巫女のお祓いを受けて、「背中に悪霊が付いていて王様を苦しめています」と告げられて、必死に水浴びを繰り返したのだ。時期は真冬だった。結局はこれが身体を衰退させて明聖王后は息絶えたのであった。

せめてもの救いは、粛宗の病が治ったことだった。明聖王后は自分の身体を犠牲にして息子を蘇らせたのだ。そうであるならば、明聖王后としては、たとえ自分が死んでも本望だったかもしれない。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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