「朝鮮王朝実録」は、朝鮮王朝の出来事を記した正史だ。王が亡くなったあとに編纂が始められ、王に仕えた記録官の記述をもとに作成された。
この「朝鮮王朝実録」を読めば、どの時代にどんな出来事があったかがわかる。その「朝鮮王朝実録」は、王妃の容姿に関して正確に言及したことがないと言われている……ただ1人の女性を除いては……。
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その1人とは誰だったのか。
それは、1680年の秋に19代王・粛宗(スクチョン)が見初めた女性だった。あまりに有名な張禧嬪(チャン・ヒビン)である。
当時、粛宗の最初の正妻だった仁敬(インギョン)王后が亡くなっているが、粛宗の心はすでに張禧嬪しか見えていなかった。粛宗が19歳で、張禧嬪が21歳のときだった。
「朝鮮王朝実録」は張禧嬪の容姿について何度も絶賛している。こうした歴史書の記述から見れば、張禧嬪が「絶世の美女」であったことは間違いない。
1681年に粛宗は二番目の王妃として仁顕(イニョン)王后を迎えたが、心は張禧嬪に完全に奪われていた。しかし、粛宗の母であった明聖(ミョンソン)王后は張禧嬪をこきおろした。
「あの女は毒々しくて悪だくみをしそうですよ。王様が最近感情の起伏が激しくなってきましたが、もしあの女にそそのかされているのならば、国家にとっても大変なわざわいです」
そう語って明聖王后はとても憂慮し、大妃(王の母)の権限を使って張禧嬪を王宮から追い出した。これには、粛宗も逆らえなかった。
しかし、明聖王后が1683年に世を去ったあと、粛宗は張禧嬪をすぐに宮中に呼び戻した。さらに、1688年に張禧嬪が王子を出産した。それが後の20代王・景宗(キョンジョン)である。
後継ぎができてとても喜んだ粛宗は、仁顕王后を1689年に王妃から庶民に格下げして実家に帰した。そして、張禧嬪がついに粛宗の三番目の王妃となった。こうして「絶世の美女」が王妃になったのだ。しかも、後継ぎの母となり、張禧嬪は「我が世の春」を迎えて人生の絶頂期を味わっていた。
その「春」はあまりに短かったのだが……。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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