朝鮮王朝にいた27人の国王の中で、一番評判が悪いのは10代王・燕山君(ヨンサングン)だ。彼は子供のときから勉学を嫌い、問題児として知られていた。その粗暴な気性はまるで冬の荒波のようであり、彼の周囲にいる者たちに絶えず不安と戸惑いをもたらしていた。
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9代王・成宗(ソンジョン)は名君として有名だが、出来の悪い息子の本質を見抜いていたにもかかわらず、「長男」という名目にとらわれて燕山君を世子に指名した。この決断には父としての感情が色濃くにじんでおり、理性と国政の安定よりも血のつながりを優先した結果であった。
もしも成宗が冷静に「国王たる資質」を見極めていたならば、燕山君に王位を継がせることはなかったはずだ。それはつまり、「王位の継承ですら私的な感情に左右される」という、統治の危うさを象徴する出来事でもあった。
さらに、燕山君の母は成宗の顔を引っかいたという理由で死罪となっている。その事実を知らされないまま燕山君は育っている。しかし、国王となった燕山君に取り入ろうとした者の口から、ついに母の運命が明かされた。その瞬間、彼の心は嵐のように乱れ、一方的な情報を信じて母の死に関わった者たちを無残に虐殺した。
理知を備えた国王であれば、そこに理性の橋を架けて人々を守ったかもしれない。だが燕山君は感情に支配され、酒池肉林の宴に溺れ、国政を泥沼に陥れた。
1506年、ついにクーデターという形で燕山君はその座を追われる。しかし、あまりにも多くの時間を要した。この遅れが、国民にとってどれほどの苦痛と流血をもたらしたかは計り知れない。
燕山君は江華島(カンファド)に流され、わずか2ヶ月で病死した。その治世を記した『朝鮮王朝実録』は、彼を追放した側によって綴られたため、悪行がことさら強調されている部分もある。とはいえ、実際の燕山君は、民を苦しめた悪しき国王の典型であった。そんな人物を世子にしてしまった成宗にも大きな責任があった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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