「朝鮮王朝の悲惨な王族物語」と称された事件にまつわる話である。
21代王・英祖(ヨンジョ)の息子の荘献(チャンホン)は、世子となったものの、多くの政敵に囲まれていた。特に、当時の主流派閥であった老論(ノロン)派の影響は凄まじく、彼を陥れようとする動きが絶えなかった。老論派は荘献の悪評を誇張し、尾ひれをつけて英祖に伝えた。
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その陰謀に加担したのが、英祖の二番目の正室である貞純(チョンスン)王后と、荘献の妹である和緩(ファワン)だ。そして、この和緩には鄭厚嫌(チョン・フギョム)という養子がいた。
彼は巧妙に立ち回り、老論派と手を結びながら、荘献の評判をさらに貶めていった。英祖は鄭厚嫌を深く信頼していたため、彼が持ち込む荘献の悪評を真に受けてしまった。
さらに、荘献にとってもう一つの敵が存在した。それは、皮肉にも彼の妻である洪氏(ホンシ)の実家だった。特に、妻の父である洪鳳漢(ホン・ボンハン)とその弟である洪麟漢(ホン・イナン)は露骨に荘献を敵視し、排除しようと動いていた。実際、洪麟漢は容赦なく陰謀を巡らせて荘献を窮地に追い込んでいった。
このように、荘献は身内によって完全に包囲されてしまう。そして、英祖はついに決断を下す。荘献を米びつに閉じ込めるという冷酷な処置であった。その結果、荘献は餓死した。後に思悼世子(サドセジャ)と称された。
彼の息子が1776年に正祖(チョンジョ)として即位した。正祖は父を陥れた者たちに復讐の刃を向けた。和緩は平民に落とされ、鄭厚嫌は死罪となる。その粛清の嵐は洪氏の実家にも及び、洪麟漢は死刑に処され、洪鳳漢も高官の身分を剥奪された。
こうして、かつて権勢を誇った洪氏の一族は、完全に没落することとなった。洪氏にとって、息子が王となりながらも実家が滅びるという事態は、あまりにも皮肉な運命であった。
だが、洪氏はそこで終わらなかった。彼女は恵慶宮(ヘギョングン)と呼ばれるようになり、徹底的に実家を守ることに力を注いだ。彼女は「恨中録(ハンジュンノク)」という随筆集を記し、その中で「夫は精神的に異常であり、奇行が多かった」「父や叔父は決して悪くない」と強調した。
実家を守るためとはいえ、不遇の最期を遂げた夫についてここまで記すとは、驚くべきことである。彼女の後半生は、実家の名誉のために「何でもやる」という日々だった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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