【ドキッとする王朝裏面史】兄弟で王位を争った末に弟が即位できた実例はあったのか

このエントリーをはてなブックマークに追加

朝鮮王朝における国王の息子たちの王位争いは、まるで運命の深淵をのぞくような激しい戦いだった。それほど熾烈な闘争の中で、兄への毒殺疑惑という暗い影を背負いながらも、国王の座に登り詰めた者が2人存在する。

【関連】【王の歴史】清の討伐を果たせないまま亡くなった17代王の生涯に注目!

1人目は、17代王・孝宗(ヒョジョン)である。彼の父・仁祖(インジョ)は、中国大陸の清に容赦なく攻められ、1637年に屈辱的な降伏を強いられた。その際、清の皇帝に対して頭を地面にこすりつけて謝罪するという屈辱に泣きぬれた。さらに、仁祖のもとで育った長男の昭顕世子(ソヒョンセジャ)と二男は清の人質になった。

ところが、昭顕世子は清の文明に心酔する姿勢を見せたため、1645年、帰国直後に父の手によって毒殺されてしまった。そのとき、二男はどうしたか。彼は仁祖と同様に清を激しく憎んでいて、兄の昭顕世子と対立していた。それゆえ、父親が兄を毒殺する謀議に加わっていたと噂されていた。

こうして二男は兄が他界したあとに世子となり、仁祖が1649年に亡くなると孝宗として即位した。結局、父の遺志を継いだ孝宗は、兄との王位争いを戦略的に制した形になった。

2人目は、21代王・英祖(ヨンジョ)である。異母兄の景宗(キョンジョン)は、1720年に即位したものの、わずか4年後に急死に見舞われた。王宮の静寂を破るように、英祖が異母兄に毒を盛ったのではないか、との疑惑が濃密に広がった。

『ヘチ 王座への道』
景宗と英祖の関係は時代劇『ヘチ 王座への道』でも細かく描かれていた(写真=韓国SBS『ヘチ 王座への道』韓国ポスター)

兄弟同士の熾烈な争い

英祖は、異母兄に代わって国王になるという野望を胸に秘め、食べ合わせがよくない「カニと柿」を景宗に勧めた。しかも、「それだけはいけません」と言った侍医の反対にもまったく耳を貸さなかった。その事実が疑惑の一端を如実に物語っていた。

この奇妙な出来事は、やがて反乱という甚大な波紋を生むに至ったが、即位後の英祖は力強く疑惑を否定して、権力によって毒殺説を強硬にもみ消した。それが、在位していた国王の強みであった。

結局、朝鮮王朝の王位継承の裏に潜む兄弟同士の熾烈な争いは、その真相が明かされることがなかった。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

【関連】【韓ドラになった歴史人】朝鮮王朝の国王の中で一番長生きした英祖が行った政策とは何か

【関連】【韓ドラになった歴史人】『華政』の仁祖が歩んだのは波乱万丈な人生だった

【関連】【張禧嬪の息子】『ヘチ』の景宗は本当に「無能の国王」だったのか

前へ

1 / 1

次へ

関連記事


RANKINGアクセスランキング

写真


注目記事