激動の「王子の乱」がよくわかる/朝鮮王朝建国時の歴史

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朝鮮王朝が建国されたのは1392年であった。 高麗(コリョ)王朝の武将だった李成桂(イ・ソンゲ)は最高実力者として絶大な権力を握り、高麗王を追放した。すかさず1392年に朝鮮王朝を創設し、初代王・太祖(テジョ)として君臨した。しかし、建国当時は王位継承問題で王子同士が闘った。その詳細を振り返ってみよう。

【関連】王位継承の続柄がわかる/朝鮮王朝の国王一覧表

朝鮮王朝が建国した当時に何が起こったのか

【1393年】太祖は中国の明の許可を得て国号を「朝鮮(チョソン)」に決める。この「朝鮮」は紀元前に脈々と続いた国名であり、新しい王朝は由緒ある名を受け継ぐ形となった。

【1394年】高麗王朝の都は開城(ケソン)であった。新しい王朝にふさわしい場所に遷都する必要性を痛感した太祖は、風水思想に基づく適地を模索。生命の「気」が満ちる場所として漢陽(ハニャン)が選ばれる。この都は現在のソウルである。

【1395年】正宮となる景福宮(キョンボックン)の建設が始まる。正門の光化門(クァンファムン)の位置をめぐって論争が起きる。仏教の無学(ムハク)大師は「南側に火を起こす気があるので、正門を東向きにしたほうがいい」と主張し、儒学者で王朝最高の功臣だった鄭道伝(チョン・ドジョン)は「国王は南に向かって政務を行えば王朝が長続きする」と反論。激論の末に太祖は「南向き」を採用。この決定は朝鮮王朝が儒教を国教にすることを意味していた。以後、「崇儒排仏」という「儒教を尊重して仏教を排斥する」政策が断行される。

景福宮の建設当時に正門だった光化門
景福宮の建設当時に正門だった光化門の位置をめぐって論争があった

【1396年】太祖の2番目の正室で建国時から王妃だった神徳(シンドク)王后が世を去る。息子の李芳碵(イ・バンソク)が世子(セジャ)だったが、神徳王后の死去で国王の後継者争いが激化していく。

【1398年】太祖の5男の李芳遠(イ・バンウォン)が王位に執着し、李芳碵の後見人だった鄭道伝(チョン・ドジョン)を殺害する。さらに李芳碵も殺して実権を握る。このクーデターを「第1次王子の乱」と呼ぶ。その結果、太祖は退位して次男の李芳果(イ・バングァ)が2代王・定宗(チョンジョン)として即位。しかし、権力を掌握していたのは李芳遠で、定宗には実権がなかった。

【1400年】太祖の4男・李芳幹(イ・バンガン)が自ら王位を狙って挙兵。李芳遠と対立するがすぐに鎮圧されて李芳幹は流罪となる。これが「第2次王子の乱」である。李芳遠は、王位継承をこれ以上混乱させないために、3代王・太宗(テジョン)として即位する。

【1408年】引退していた太祖が73歳で亡くなる。

作成=康 熙奉(カン・ヒボン)

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